音楽史 095 ◆ダンスタブルとオールド・ホール写本の作曲家たち◆


 ◆ダンスタブルとオールド・ホール写本の作曲家たち◆

 この時代、聖エドモント大学(St.Edmund's College)、オールド・ホール・ウェアー(Old Hall Ware)に保存されている、はるかに重要なイギリスの資料が、1410-20年頃に編集されています。それには、王宮礼拝堂(Chapel Royal)のメンバー、クック(Cooke)(1453年没)、スタージョン(Sturgeon)(1454年没)とダメット(Damett) (1437年没)による、1415年、アジャンクール(エイジンコート)・イヤー(the Agincourt year)での勝利の祈願と感謝を捧げるアイソリズムのモテトゥスを含んでいます。

しかし、これらは技法的な巧みさにおいても音の透き通るような美しさにおいても、後の人の手によってオールド・ホール(写本)に加えられた別のモテトゥス、ジョン・ダンスタブル(John Danstable)(1453年没)の「Veni sancte Spiritus/Veni ceator/Mentes tuorum」によって超えられています。フランク・ハリソン(Frank Harrison)は、この(曲)はチャペル・ロワイヤル(王宮礼拝堂)が、1431年のノートルダムでの九歳年上のヘンリー6世の戴冠式で、ベッドフォード公の礼拝堂(付き聖歌隊)で歌われたかも知れないことを示唆しています。というのは、ダンスタブルは、ブルグンド公であるフィリップの同盟者であり、義理の兄弟であるベッドフォード公に仕えていたからです。

ベッドフォード公は、家臣の中にヨーロッパで最も才能ある音楽家たちの多くを抱えていました。そして、他のどんなイギリスの作曲家たちよりも -- カンタベリーのベネディクト会士、ライオネル・パウアー(Leonel Power)(1445年没)よりも -- その作品が、イギリスの資料よりも大陸の資料に多く保存されているのが、ダンスタブルでした。彼は、ブルグンドの巨匠を通して、イギリスの流れをヨーロッパ音楽に注入しました。

ブルグンドの宮廷詩人マルタン・ル・フラン(Martin le Franc)(Le Champion des dames, 1440年頃)によって選ばれただけでなく、「G.デュファイ(Du Fay)」やバンショワ(Binchois)が、「公の(高い)音楽と私的な(低い)音楽とを快く致させるための新しい実践(nouvelle pratique De faire frisque concordance En haulte et en basse musique)」を試みたのは、ダンスタブルによるものでした。

そして、一世代後のワロン人、理論家であり作曲家であるヨハネス・ティンクトリス (Johannes Tinctoris)(Proportionale musices c.1474)は、「私たちの音楽の可能性は、非常に驚くほど増大し、新しい芸術が現れたように思える・・・。その起源は、イギリス人たちの中に保持されており、その中でもダンスタブルは第一人者である。1508 年になっても、Livre de la Deablerie の中でエロワ・ダメルヴァル(Eloy d'Amerval)は、「偉大な音楽家たち(grans musiciens)」のリストの冒頭に「ダンスタブルとデュファイ(Dompstaple et du Fay)とを挙げている。」と明言しています。