◆無秩序で荒々しく凶暴なもの◆


◆無秩序で荒々しく凶暴なもの◆
 
 宮城県北部の地震は、前震、本震、余震と三度にわたって震度6を記録した初めての地震ということで、関心が集まっているようですね。地震の深さが浅い直下型地震で、エネルギー(マグニチュード)の割に大きな揺れを記録したということです。
 
 その前には、九州で集中豪雨があり、さらに梅雨明けは遅れ、特に東北地方では、気温が上がらず日照時間も極端に少なく、10年前の悪夢を思い出している人も少なくないでしょう。こちらは(四国地方)、梅雨は明けましたが気温はそれほど上がっていません。今日から数日は、また雨の予報。実際に今は雨が降っています。
 
 稲のいもち病というのは28度ぐらいが一番発生しやすい気温だと言うことですので、30度を超える程度の気温になって欲しいと願ってはいるのですが、さあどうでしょう。
 
 以前も書いたような気がするのですが、自然はやさしく人を包み込んでくれる癒しのイメージが一方にはありますが、古代人にとっては、自然は無秩序で荒々しく凶暴なもの、破壊的なものでありました。山登りする人達はよく知っていることでしょうが、自然は決していつもそうした優しい表情ばかりを見せてくれるわけではありません。その表情が急変することがよくあるのです。
 
 科学は、ある意味、その自然を制御しようという営みであったといえるでしょう。一方では、自然以上に凶暴で破壊的な力を有してしまったとも言えますが。
 
 人間世界も、無秩序で破壊的なものでもありました。しかし、自然に比べれば、規範と秩序ある世界だと古代人は考えたようです。彼らにはそれなりの規範がありました。まだ、道徳とか哲学とかいった高度なものになっていなくても、そうした規範が人間世界に秩序をもたらしていたのです。
 
 しかし、最近のニュースは、人間世界にも突如として無秩序で荒々しく凶暴で破壊的なことが起こるのだということを示しています。自然のままの人間、それは理想的な人間のあり方ではなく、欲望のままの人間、凶暴で手に負えない人間の姿に見えてしまいます。
 
 七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず(七十而従心所欲。不踰矩) 自然のままでいて、それでいて「矩を踰えず」。それには、それなりの修養が必要でしょう。その修養の過程や機会が失われているのが、現代ではないかと思うこの頃です。