◆ローマの音楽(その2)◆


◆ローマの音楽(その2)◆ 
 
 伝承によりますと、サリイ(salii)という天からヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius)に与えられた盾を守って祭りを行ったとされるマルス(Mars)とクィリヌス(Quirinus)の祭司たちは、3月1日にローマの通りで歌ったり踊ったりして歩き回ったことが知られています。また、収穫前の田園や都市との境界付近を歩き回っていたアルヴァレス(arvales)という一団も歌を歌いました。アルヴァレスもサリイも、ともにレスポンソリウム的にあるいはアンティフォナ的に歌っただろうという指摘があります。
 
 リウィウス(vii:2ff)には、BC364年のパントマイムの上演の話しが載っています。それは、エトルリアの役者たちを訪れると、ティビアの演奏に合わせて踊っていたというものですが、歌は全くありませんでした。これが、ローマの若者に真似され、次第に役者や歌い手といった職業階級が形成されていくことになります。
 
 BC240年頃、ギリシア人の捕虜、リウィウス・アンドロニクスは、「自らの歌を演ずる者」すなわち作曲家であり演奏家であって、ギリシア演劇の概念を採り入れます。また、BC2世紀にギリシア喜劇を採り入れた人達は音楽を導入しますが、そこには彼らのオリジナルは一つもありません。
 
 プラウトゥスは、対話の一節を音楽のある節に変え、ティビアの伴奏に合わせて歌ったり語ったりするようになるのですが、短長三歩格だけには音楽は付けられず、そのまま残されます。
 
 テレンティウスになりますと、音楽のある節は少なくなりますが、ヴィクトリアヌス写本(Codex Victorianus)の「ヘキュラ(Hecyra)」のテキストには、歌い手のためにアクセントのある音節(Act V, sc.4,.861)の上に、ギリシアの「楽器の」記譜法が書いてある短長八行連句がひとつあります。勿論、この資料は、後の時代のものですので、ここにオリジナルの断片があるとは決して言えないのではありますが。