◆ローマの音楽(その3)◆


◆ローマの音楽(その3)◆ 
 
 クラウディウス帝の奴隷であったフラッススは、テレンティウスの「アンドロスの女(Andria)」と「フォルミオ(Phormio)」のために「曲を書いて」います。「アンドロスの女」の音楽を長さの等しいパイプのティビア(tibiae pares)のために、長さの異なるティビアのために「フォルミオ」の音楽を作曲しています。
 
 パイプの長さが異なるということは、持続低音を変えることができたと言うことでしょう。この長さの等しくないティビアは、古い型のものより力強いもので、ローマ人はそれをフリギアのティビアと呼んでいました。(普通のタイプのティビアは、「リディアのティビア」と呼ばれています)
 
 それは、キュベレの酒神祭で、様々な太鼓・シンバル・ガラガラの類とともに、東方から伝えられたようです。社会的地位のあるローマ人からは嫌われていました。彼らは、キタラを最も優れたソロ楽器、伴奏楽器とみなしていました。
 
 キリスト教時代が始まる前の間に、ヘレニズムの才能は、それまで非常に単純であった送風(管)楽器のメカニズムに画期的な変化をもたらします。風圧を一定に保つことは、常にアウロスの問題点で、初期の頃、BC6世紀から知られていた唯一の解決法というのは、ギリシア語でフォルベイア、ローマ人は「カピストルム」と呼んでいた革の「はずな」を口に結わえることでした。
 
 ところが、BC1世紀のアレクサンドリアテラコッタ像から、風圧を一定に保つ空気袋からアウロスに風を送るような工夫がなされていたのではないかというのです。これが本当だとすると、十分発達したバッグパイプが存在していたことになります。
 
 後に広く普及し、盛んに用いられるようになった民衆の楽器であるバッグパイプの起源について、これ以上のことは分かりませんが、ローマ時代、その楽器が用いられたのは、宮殿ではなく居酒屋でした。スエトニウス(Suetonius)は、皇帝ネロがバッグパイプ奏者になる野心を抱いていたと語っていますが、決して洗練された楽器として受け入れられることはありませんでした。
 
 しかし、その基本的原理は、アレクサンドリアの科学によって輝かしい発展を遂げることになります。オルガンの誕生です。