◆ローマ--帝政下の音楽◆


◆ローマ--帝政下の音楽◆ 
 
 この時代の記譜された音楽の中で、最も重要なものは「セイキロスの碑文」(恐らく紀元1世紀、古代リディアのトラレス(Tralles)のアイディン(Aidin)出土)「コントラポリノポリス(Contrapollinopolis)・パピルス」(2世紀半ば、テバイド(Thebaid)出土)と「オクシュリュンコス(Oxyrhynchus)・パピルス」(3世紀後半、エジプト出土)の三つです。
 
 これらわずかの証拠品しかありませんが、それでも全般的な状況や傾向がどうであったのか優れた考えを導き出すことは可能です。例えば、古代ローマの宗教音楽の音楽制度を維持し軍隊音楽の使用を基にした、昔ながらの伝統的道徳的な音楽の伝統がありました。何世紀も昔からあるサリイやアルヴァレスは、皇帝の礼拝に採り入れられました。
 
 一方、これらと関連付けられている東方の異教の祭礼や楽器は、帝政期絶えず数を増やしながらローマに伝られ、市民権を得、盛んに用いられていたのですが、古いローマのエトスを保持している者たちからは、退廃的なものと見なされていました。セネカは、すでに、女々しい音楽の好みが増大していることを嘆いていましたし、クィンティリアヌスもそうでした。
 
 劇場と音楽との関連は、特に、しばしばみだらな身振り狂言やパントマイム(本来は一人でする劇の踊り)において、また、円形劇場での低俗な見せ物や酒神祭のような飲み騒ぐ宴会と音楽との関連は、音楽を一層広めることにはなったものの、それ以上に嘆かわしいものでもあったようです。
 
 しかし、反対ないし否定されるべきものは、音楽や踊りそのものではなく、実際、キケロギリシアは音楽によって堕落したと考えていたようですが、そうではなく、音楽の傾向でありそれへの熱狂でした。古代のローマ人は、奴隷の音楽の専門家によって奏でられる弦やティビアの音を聞きながら食事をし、マルクス・アウレリウスは若いときにサリイの歌と踊りを導入していますが、それは、酒神祭のような音楽への熱狂や競い合いとは別の問題でしょう。