◆ローマ--帝政下の音楽(その2)◆


◆ローマ--帝政下の音楽(その2)◆ 
 
 ローマの厳しいモラリストの目に映ったもう一つの退廃の兆候は、アレクサンドリアからもたらされた巨大な演奏会の祭儀でした。セネカは、演奏会には劇場の見せ物以上に多くの歌い手がいて、通路が歌い手たちで溢れかえっていたと語っています。
 
 それを文字通りに取る必要はないのですが、その2世紀後、浪費家のカリヌス帝(紀元284年)の短い統治時代で著しい出来事といえば演奏であり、それに100人のトランペット奏者、100人のホルン奏者、200人のティビア奏者が、全属州から集められたといいます。
 
 セネカは、これらの異なるすべての音--高い音、深い音、中位の音、男の声、女の声、ティビアの音--は、調和している(fit concentus ex dissonis)というのですが、それがどんなものであったかは推測する他ありません。恐らく、初期のギリシア人のように、何らかのヘテロフォニーを奏でた、異なる作品を同時に演奏した、あるいは同じ旋律を単純化したものを演奏したのではなかったかということです。
 
 そして、この時代(紀元2世紀)、アレクサンドリアプトレマイオスクレオニデス、ガウデンティウスなどの音楽や数学の理論家たち--彼らが、古代ギリシア音楽の私たちの概念を混乱させてしまったのですが--がいたにも関わらず、旋律はほとんど確実に全音(diatonic)であっただろうということです。