◆東方教会の音楽◆


 ◆東方教会の音楽◆

 一方、東方教会の歴史的役割は異なっていました。理由は検証されなければなりませんが、音楽は静的になりヨーロッパの偉大な音楽の開花には何の役割も果たさず、不毛ではないにしても間接的なものに過ぎず、ヨーロッパに匹敵しうる東方教会自らのものを発展させ開花させることはできませんでした。

 しかし、ビザンティウムの初期の時代は、キリスト教音楽そのものが本質的には東方ヘレニズム・ローマ世界のユダヤ教の一方言に過ぎませんでしたし、あるいはより可能性があるものとして、そうした方言を内包するものでした。というのは、あらゆる様々な民族、異教徒たちがキリスト教に改宗し増加し、その影響で典礼の音楽は極めて多様なものになったに違いないからです。

 後の時代にその一端を私たちはかいま見ることができます。例えば、シリアのエクフォネティック(Ekphonetic)記譜法(音高のパターンを示す符号)、12世紀のアルメニアの記譜、16世紀のエチオピアの記譜や賛歌などは、恐らく今日のシリアやアルメニアコプトエチオピアの教会音楽に、永い世紀に渡って口伝を通して生み出され伝えられてきた変化をすべて留めて現在まで伝えられていることでしょう。

 厳しい異教の弾圧と体系化、聖典化への情熱で、「正統」教会がその至上権と典礼の荘厳な輝きを確立したのは、527年ユスティニアヌス帝の即位の時でした。こうして音楽はこれまで以上に重要な役割を果たすことになります。

 しかし、ローマの教会は4世紀中頃から初期キリスト教の「共通言語」であったギリシア語に代えてラテン語を使用するようになり、西ローマ帝国の滅亡と共に国家からも分離し、ローマとミラノの指導の下別の典礼を発達させる傾向がありました。