◆聖歌集の制定◆


 ◆聖歌集の制定◆

 聖歌と詩編は、教会の日々の聖務の最も初期からとりわけ重要でした。尼僧エゲリアは、エルサレムでの聖務儀式 - 朝課、六時課、九時課、晩課 - や降誕祭、公現祭、復活祭などの儀式について語っています。これらの儀式には「その日に相応しい」賛美歌や交唱聖歌がありました。

 エルサレムでは、このように一年を通じた典礼の形式が、それに相応しい音楽を伴って十分に発達していました。それは、聖ヒエロニムスが、ローマのラテン典礼を形成していく上での模範でもありました。

 ミサ(missa)という言葉が - 典礼の終わりを告げる言葉の定型「Ite missa est」から取られたものですが - 不正確なものであったにしても 専門用語として初めて用いられたのは、エゲリアと聖アンブロシウスによってでした。

 ずっと後の、かなり疑わしい権威、私たちには、ローマの修道院の食事について書いた人物としてだけ知られている8世紀後半のフランクの修道士(Anonymous de prandiis monachorum)によれば、レオ1世が典礼年暦のために聖歌集を制定してその使用を強要しています。また、ゲラシウス(Gerasius)やその後の教皇たちも同様の聖歌集を制定したと語っています。

 そうした聖歌集の制定は、グレゴリウス1世(590-604)、マルティウス(649-53)に7世紀の3人のローマの大修道院長まで続きます。これらの聖歌集は、その音楽は口伝されたもので、ローマでの使用のためだけのものでした。