◆グレゴリウス(1世)大教皇◆


 ◆グレゴリウス(1世)大教皇

 前回、ローマでの典礼の使用のために、いろいろと聖歌集が制定されたというような話をしましたが、ガリア、ケルト、西ゴート、スペイン(ムーア人が8世紀初めに征服をしてからは「モサラベ」として知られる)そしてミラノでは、典礼は独自に発展を遂げていました。また、その他のどの修道院でも、司教の支配からは自由でかなり個性的なものでした。統一された典礼のための音楽、聖歌集があったわけではないのです。

 ところが、やがて一つの神話が生まれます。グレゴリウス1世が一年を通じての典礼のための音楽を制定したばかりか、「グレゴリオ聖歌」として知られる大集成を作曲したことになっていくのです。彼は、中世の写本の彩色師たちによって、耳のそばにいる聖霊によってインスピレーションが与えられたように描かれます。

 しかし、グレゴリウス1世自身が書いたものは、ほとんどまったくと言っていいほど音楽には触れていません。グレゴリウスの音楽の活動に関するものと解釈される最も初期の証拠は、731年に年代付けられるビード(Bede)の教会史(Historia Ecclesiastica)(iv.2とv.20)の中にあります。それには、ロチェスターの司教プッタ(Putta)は「教会でローマ風に歌うことに特に巧みであった。彼はその方法を列聖された教皇グレゴリウスの discipuliから学んだ」と書かれています。

 しかし、discipuliというのは、グレゴリウスの音楽の「弟子」ではなく、カンタベリーオーガスタンとその宣教団のことなのです。そして、彼らには、旅の途中、偶然ガリアで用いられているものに印象を受け、もし相応しいと思ったなら、イギリスではそれらを用いてもよいという権威が、わざわざ教皇から授けられていたのです。

 ビードが、それをイギリスの教会音楽の起源はローマであると主張しているのは、それにはケルト教会によるものは何もないということを示そうとする強い願望があったからだろうと言われています。彼の死後、イギリスではローマ式典礼が最終的に勝利を収めることになります。