◆フランク王下の教会音楽◆


 ◆フランク王下の教会音楽◆

 この時までに、典礼史、つまり音楽史の流れに決定的な影響を及ぼすことになるある政治的事件が起こっていました。

 ロンバルド族からローマ教皇を救う過程の中で、フランク王小ピピン(741-68)が、使節の一人として、メッスの司教クロデガンをローマへ派遣しています。彼は、そこでローマの教会音楽に興味を持ちます。翌年754年、感謝の気持ちにあふれた教皇ステファヌス二世は、サン・ドニに来て、自らの救済者(小ピピン)を塗油し聖別します。

 そこで、ローマとガリアの典礼と音楽が対面することになりました。その結果、ピピンはローマの典礼に純粋に印象を受けたか、それを採用する政治的有利さに気づいたかしたのでしょう。

 760年頃、ローマで学んだ一人の歌の教師が、メッスに来て、スコラ・カントールムを設立します。また、ローマのスコラの副校長が、王の兄弟が司教をしていたルーアンに、同じことをするように派遣されます。教皇ピピンに、アンティフォナーレとレスポンサーレ、それぞれミサと聖務日課の歌の含まれているものですが、それを送りました。

 このローマ化の過程は、同様の熱心さで、ピピンの息子、シャルルマーニュカール大帝)によって成し遂げられます。彼は自ら「フランクとロンバルドの王、ローマ総督」と称し、800年には--彼の期待を超えて--レオ三世によって「ローマ皇帝」として戴冠されます。

 新しい西(ローマ)帝国が、一時的であるとはいえ、存在することになりました。そして、シャルルマーニュは、教皇が援助を求めていないのに、すでに自らをテオクラト「すべてのキリスト教徒の王であり、司祭であり、指導者で導き手である。」と見なしていました。

 信仰と典礼の統一は、彼の帝国の概念において基本的なことでした。しかし、ガリア式典礼ガリア式聖歌の廃止には、根強い抵抗があっりました。そこで、789年の一般教書の中で、シャルルマーニュは、すべての聖職者は、ローマ式聖歌を学び採用しなければならない、と主張しなければならなかったのです。