◆メッスのアマラル◆


 ◆メッスのアマラル◆

 カロリング朝のローマ化推進者たちが、イギリスのビード同様に、グレゴリオ教皇の権威をどのように持ち出そうとしているかを見るのはそう難しいことではありません。

 例えば、シャルルマーニュの友人であり忠告者であったアルクィンの弟子のメッスのアマラル(Amalar)(c.780-c.850)は、「大教皇グレゴリウス」はミサ典書(Missal)の auctor(その意味は、著者あるいは単なる発起人であるかも知れない)であると信じていましたし、872年頃書かれた「聖グレゴリウスの生涯 (Vita Sancti Grigorii)」の著者であるヨハネス・ヒンモニデス(Johannes Hymmonides)は、グレゴリウスはアンティフォナーレを編纂しただけでなく、スコラ・カントールムを一つ設立したとも言っています。

 グレゴリウスの名と権威は、このように持ち出されていますが、何の為だったのでしょう。それは、音楽史最大の謎の一つです。

 「アンティフォナーレの順序について(De ordine Antiphonarii)」の序の中で述べられていますが、ある問題に最初に気づいたのは、恐らくアマラル(Amalar)でしょう。クロデガン(Chrodegang)の時代以来、特別なローマの伝統の宝庫と見なされていたメッスの聖務日課書の中に、明らかな欠点があることに戸惑って、アマラルは 831-2年その元の資料の研究にローマを訪れます。彼は、グレゴリウス4世に真のアンティフォナーレを求めて、故国に持ち帰ろうとしたのかもしれません。

 教皇はその恩恵を施すことができませんでしたが、アミアン(Amiens)近くのコルビー(Corbie)の大修道院長に、数年前に与えた四巻の聖務日課書を調べてみるように薦めます。アマラルがそうしてみると、順序や言葉がメッスで用いているものとはしばしば異なっていること、新しいアンティフォナやレスポンソリウムがたくさんあって、これらは皆、ハドリアヌス一世(772-95)の下で、あるいはハドリアヌス一世によって企てられた改訂作業の結果であることを発見して驚くのです。

 予想していたような、権威ある一つの版があるのではないことを知って、アマラルは、メッスで使用するための新しいアンティフォナーレの編纂に取りかかります。古いメッス版、コルビー版、そしてトゥール(Tours)で若い頃アルクィンによって教えられたものを利用しながら。