◆「グレゴリオ聖歌」と「古ローマ聖歌」◆
◆「グレゴリオ聖歌」と「古ローマ聖歌」◆
さて、これまでの話をまとめてみますと、イギリスではビードが、本来ガリアやケルトの典礼の起源であるものを、グレゴリウス1世から学んだものであると主張し、フランクのカロリング朝でも、その聖務日課書の起源はローマにあると主張し信じられていました。
しかし、メッスのアマラルが恐らく初めてそれに疑問を抱き、ローマに真のアンティフォナーレを求めて赴きます。しかし、そこで発見したのは、メッスのものとコルビーのものとでは大きく異なっていることでした。そして、新たにメッスでの使用のためにアンティフォナーレの編纂に取りかかります。
現代の学界では、二つの聖歌、すなわち書かれた典礼用テキストを区別しています。音楽は、まだ口頭でおおよそ正確に伝えられただけでした。というのは、この時期、まだ西洋音楽には記譜法の体系がなかったからです。
前回の話でお分かりの方もいるかも知れませんが、コルビーの聖務日課書が「古ローマ聖歌」とずっと呼ばれてきたもので、いわゆる「グレゴリオ聖歌」より古く、グレゴリウス一世(大教皇)その人の時代にまで遡ると考えられています。またもう一つの説、「古ローマ聖歌」と「グレゴリオ聖歌」は同年代のものでありますが、異なった場所、一つは修道院で、もう一つは教会で用いられてきたという議論もあります。
音楽の記譜のある最も古い「古ローマ聖歌」の写本は、最も狭い意味でローマのものであることは確実です。トラステヴェレ(Trastevere)の聖チェチリア(Cecilia)修道院教会のグラドゥアーレ(Gradual)(1071)とヴァチカン図書館にあるグラドゥアーレ(lat.5219)は、ラテラノ宮殿(聖堂)で用いられたと考えられています。
しかし、なぜ古ローマ聖歌のコルビーの聖務日課書が、8世紀のまさに終わり頃からなされた改訂版であってはならないのか、恐らく、全く理由はないでしょう。
それでは、「グレゴリオ聖歌」とは何なのでしょうか。一つの見解は、ローマの教会で用いられたものは、教皇のスコラで発展させられた特別の聖歌に由来するというものです。しかし、最も古い書かれた資料はローマで編纂されませんでした。カロリング朝が分割された東西のフランク王国に源を発しているものでした。そして、これらの土地で認められていた模範は、メッスの聖務日課だったのです。
12世紀前半になりますと、聖ベルナルドゥス(Bernard)(d.1153)が、メッスの伝統の上に立って、シトー会修道院(Cistercian)の聖歌集の改革を行います。また、10世紀の間には、オットー大帝の下の西(ローマ)帝国の復活(神聖ローマ帝国)と教皇への服属とともに、このフランクの伝統が、ローマの伝統そのものの中で、自らを確立したとずっと考えられているのです。