◆教会旋法◆


 ◆教会旋法

 記譜法の起源だけではなく、全音階体系の起源もまたビザンティウムにありました。アレクサンドリアビザンティウムの理論は、ギリシア形而上学的、数学的思考と用語を伝え、それらをそれまでにない大混乱の中に陥れたのですが、その一方で、実際のビザンティウムの体系は限りなく単純なものでした。

 簡単に言いますと、それぞれ二つの分離型の全音テトラコードからなる8つの旋法の概念に基づくものでした。これらの旋法のうち、四つは「真正な」もの、つまり「正格」で、第一旋法はDに、第二旋法はEに、第三旋法はFに、第四旋法はGに基づいており、ギリシア語のアルファベットα,β,γ,δによって示されて、ネウマの線の前に置かれています。

 他の四つは、「変格(plagal(oblique))」と言われ、文字π,λで示されます。対応する「真正な(正格)」旋法より四度低い「開始音 (starting note)」に基づいていました。しかし、旋法は、テトラコードの半音の位置が異なるだけではなく、ネウマで示される定型の旋律によっても区別されました。

 ビザンティウムの旋律は・・・一種のモザイクであり、その中に伝統的な旋律定型が、さまざまに結びつけられ、全般にはよく似ているが決して同一でない模様を生み出していました。これらの旋律の定型には二種類あります。一つは、理想的な旋律型です。一方、実際に用いられる型は、テキストの使用目的によって異なってきます。他に、装飾とメリスマがありました。

 理想的な旋律型は、本質的な変化はなにも許容されていません。原則として唯一の旋法、あるいは対となる旋法に限定されていて、旋法を区別する上で、非常に重要な要因となっています。装飾やメリスマは、この制限からはほとんど自由なのですが、それでも、それらは全音階体系の固定された点に結びつく傾向がありました。

 定型の旋律による作曲の原理は、もちろん、極めて古いもので、地中海全域あるいは地中海に近い地域の音楽に共通のものであったように思えます。また、原理だけでなく、時にはビザンティウムの旋律定型そのものが、西洋、特にミラノの宗教音楽に伝えられました。

 ビザンティウムの教会に特有のものであったと思えるのは、典礼年暦を通して体系的に旋法を使用していることです。それは、六世紀初めのシリアの教会に起源を持ち、ダマスクスの聖ヨハネ(c.700-760)によって採用されたものです。オクトエコス(Oktoechos)、すなわち八週間の讃歌集(cycle)で--イースターには、第一旋法で最初の一週間の讃歌を、次の一週間は第二旋法で、というように第八旋法まで続き、再び第一旋法に戻るというものです。

 西洋で最初に教会旋法に言及するのは、アルクィンとアウレリアヌス・レオメンシスです。アルクィンは、ラテン文字化したギリシア語の名称--プロトゥス(protus),デウテルス(deuterus),トリトゥス(tritus)とテトラキウス(tetrachius)--を付けています。アウレリウス・レオメンシスは、様々な旋律型をすべて、特に冒頭の旋律型を知っていたようです。

 その旋法についての明確な教えは、プリュムのレギーノ(Regino of Prum)(d.915)の「ハルモニカ・インスティトゥチオについての書簡(Epistola de harmonica institutione)」の中に見いだすことができるでしょう。彼は、まだ、ギリシア語の名称--アウテンティクス(authenticus)、プロトゥス(protus)、プラガ・プロティ(plaga proti)など--を用いていますが。

 重要なことですが、レギーノは、恐らくトナリア(tonaria)(旋法や--アンティフォンの場合には-- それぞれの旋法の中で、カデンツァの定型で分類された典礼歌集)として知られる最も初期のものの編纂者であったと思われます。更に、初期の聖務日課書、トナリウム(tonarium)は、840年と 869年の間にメッスで編纂されたものです。--すなわち、アマラルが生きていた時代かちょうどその後のあたります。残念ながら、それにはネウマがほんの少ししか書かれていないのですが。