◆教会の分裂◆


 ◆教会の分裂◆

 このようにビザンティウムの遺産の多くが西洋に伝えられました。しかし、東方と西方の教会は、1054年に最終的に分裂するまで何世紀もの間、互いに離れ離れに漂流していました。528年のユスティニアヌス一世の、ローマ帝国で繁栄していた多くの異教異端の痕跡を根絶しようとする厳しい企てを伴った東方教会の再組織化、コンスタンチノープルを至上とする強力で厳格な教会機構の確立、聖ソフィア教会の建造といった、教会の威光や芸術的絢爛さを高めようとする数多くの施策、これらすべてが分裂を引き起こす方に働いたのです。

 賛歌は、東方教会では、常に特別な重要性を持っていましたが、朝課(Matins)や晩課(Vespers)において一層大きな役割を演じました。それらは、主にレスポンソリウムであったミサよりも音楽的に重要となります。聖歌学(Hymnology)は新しい詩の形態によって豊かにされます。古いトロパリオン(troparion)に聖ロマノス(St.Romanus) (5世紀後半から6世紀初め)とその信者たちのスタンツァのあるコンタキオン(kontakion)が付け加えられます。そして、カノン(kanon)(すべて韻律と旋律が異なっている9つ一組の頌詩)がクレタ島の聖アンドレアス(St.Andrew) (c.660-c.740)によって初めて考案されました。これらすべては正教会特有のもので、ミサより聖務日課が主たる日々の礼拝でした。

 カトリックのミサは、決して完成された形には至りませんでしたが、既に祝祭日や聖人祝日を取り上げる傾向にありました。それらは、聖ヨハネス・クリソストムスの正教会典礼からは排除されていましたが。キリエは、ギリシア語の神への呼びかけを含んでいますが、ギリシア語がローマ教会の言語であった教皇ダマスス1世以前の時代(pre-Damasian days)から保持されます。(クリステは、後のローマの神への呼びかけです。)両方の教会とも「三度の繰り返し(thrice holy)」を共有していました。

 正教会典礼では Little Entranceに続くトリサギオン(Trisagion)、そして、カトリックのミサでは「三度繰り返す」サンクトゥス。しかし、Great Entranceのケルビムの讃歌(Cherubic Hymn)が、574年、東方では導入されますが、西方にはそれに対応するものはありませんでした。しかし、こうした典礼音楽の実践儀式の違いにもかかわらず、正教会カトリックはコミューニオンにとどまりお互いに影響を及ぼし続けることはできたでしょう。もし、東ローマ帝国での偶像破壊論争 (Iconoclastic controversy)、フォティオス派異端(Photian herecy)、そして当然のことながら最終的な教会分裂がなかったならば。