◆正教会の孤立◆


 ◆正教会の孤立◆

 教会の分裂は、東ヨーロッパの音楽にとって致命的な結果をもたらしました。地中海と中近東諸国の長い興隆は過ぎ去りつつあったのです。キリスト教音楽の文化的重心は、イタリアでもなく、フランクの地にありました。フランス王国とオットー帝国に。大胆な展開が起こっていたのはそこでした。記譜法において、新鮮な旋律の発明において、ポリフォニーにおいて。

ビザンティウムは、楽器の伴奏のない古いモノフォニーを厳密に保ち続けました。音楽の記譜法は発展していたのですが。典礼は、1054年の教会分裂以降もほとんど変わりませんでした。しかし、その頃に、今日「中世ビザンティウム記譜法(Middle Byzantine notation)」として知られる、音程の幅、リズム、そして強弱さえも示すことのできるより精巧なネウマの体系が現れます。そして、1453年のコンスタンチノープルの陥落のおよそ半世紀前、赤インクで印を付ける記譜法が採用されますが、これは、古い記譜法の改良でした。一方、西洋が必要として、その結果発見したものは、新しい記譜法です。

 ビザンティウムの人々の保守主義は、彼ら自身にとってだけでなく、正教会に改宗した人々にとっても不幸となりました。正教会に改宗した者たちは、帝国崩壊後250年もの間、その結果に苦しみ続けることになります。

中央ヨーロッパのスラブ人たち--チェコ(チェク)人、モラビア人そしてスロバキア人--は、正教会に一時改宗しますが、900年頃マジャール人の侵入によってビザンティウムから切り離されます。その結果、結局、ローマ・カトリックとローマのアルファベットを採用することになります。異教徒のポーランド人は、すぐカトリシズムを採用し、アドリア海近くの南スラブ民族--スロバニア人とクロアチア人--も同様にローマに屈します。

一方、ブルガリア人とロシア人は、ビザンティウムの宗教と文化を取り入れました。ギリシア語のアルファベットをキリル文字として採り入れたことも含めて。長いためらいの後、ブルガリアのボリス一世(Boris I)は、865年、西方のキリスト教の形態ではなく東方のキリスト教を選ぶことになります。そして、ブルガリア正教会の信仰と典礼ギリシア正教会ではない。ギリシア典礼ブルガリア典礼は相並んで用いられることもありましたが。)をキエフ・ロシアにもたらしたのはブルガリアの宣教団でありました。

989年、ウラジミール大帝は、同様にカトリシズムと正教会イスラムとの間でためらった後、臣下たちに一斉に正教会への改宗(mass conversion)を強制します。典礼とともに音楽も入ってきました。--ちょうど西洋と同じように--エクフォネシス・ネウマ(ekphonetic neumes)の記譜が不正確であったため「方言(地域差)」が生まれます。この過程は、恐らく、言語の違いによって促進されたことでしょう。また、ロシア人が古ブルガリア(の典礼)を13世紀と14世紀に修正し始めたとき、更に一層促進されたことでしょう。

ネウマによって非常に曖昧に伝えられた旋律線が「方言」を生み出していったばかりでなく、ネウマの形そのものも形を変えていきます。しかし、12世紀には、まだ、古ビザンティウム記譜法(Old Byzantine notation)、コワスラン・ネウマ("Coislin" neumes)(パリの Bibl.nat.,Fonds Coislin 220 の写本からそう呼ばれる。)と初期ロシアの「歌い方の記号(印)(знамение распев(sign chant))」の間には、まだ、明らかな関係がありました。ビザンティウム記譜法の正に最後の革新--15世紀前半の赤い印--は、16世紀後半に、ノヴゴロドの音楽家であり理論家であったイヴァン・シャイドゥロフによって、正確な音高を示すために導入された朱文字記号(cinnabar-letter- signs)に響きあっていました。

ロシア人を2世紀にわたって服属させたモンゴル人によって、また、全南東ヨーロッパを蹂躙したトルコ人によって文化的に孤立したロシア人は、音楽的には、500年前フランク人によって達成された発展段階にまだとどまっていました。歴史の奇妙なトリックによって、地中海の伝統の最後の純粋な遺物は、モスクワとノブゴロドに残ることになったのです。