◆記譜法の発達◆


 ◆記譜法の発達◆

 東地中海地域の音楽とだけでなく、世界の他のすべての音楽と西洋音楽とを分かつもの、西ヨーロッパ音楽全体の伝統の基礎的理論の始まりは、文献上に残されている限りそのようなものでした。しかし、実際の演奏はもっと早くに始まっていたに違いありません。実際には、すべて、ヘテロフォニーが次第に少しずつ変化していったもので、その「始まり」について言うことは難しいでしょう。

フクバルトの著作、偽フクバルトの著作をこれほどまで重要にしているのは、それらが実際の演奏を記録し集成していること、また、それを西洋音楽の最も重要な形式、教会音楽との関連でそうしていることからです。優れた「楽器」であるオルガンが、異教とのつながりを示す最後の痕跡をも拭い去り、西ヨーロッパで、歌手の訓練のためだけでなく、ついに正式に認知され、少なくとも10世紀までには礼拝で用いられるていることが認められます。

まさに、その時に、オルガニザチオ、そしてオルガヌムが認められ始めたこととは、単なる偶然の一致では、決してないでしょう。楽器によるサポートは、たとえ不可欠なものではないとしても、大いに役立ったに違いありません。そして、更に複雑化するには、それなしでは、--あるいは正確な音高を示す実用的な方法なしでは、ほとんど考えられないでしょう。

フクバルトの図表は、実用的な記譜法ではありませんでしたし、そうなることもありませんでした。私たちがこれから見ていくように、それは12世紀まで、時折用いられることはあったとしても、その線と空間は、譜表の先駆となることはありませんでした。それを解決するのは、ネウマをより正確にすることにありました。

 ネウマ自体は、地方地方で様々な形を発展させています。最も重要なのは、北フランスとメッスのタイプであり、それにイギリスやドイツ語を話す地域と北イタリアのタイプが、多少なりとも密接に関連しあっていました。後の、南フランスの「アキテーヌの(Aquitanian)」ネウマと南イタリアの「ベネヴェントの(Beneventan)」ネウマは、ずっと、際だった違いを発展させていましたし、一方、スペインやカタロニアでは、モサラベの典礼が、それ自体独自の記譜法を保持していました。