◆焚書に続く時代◆


 ◆焚書に続く時代◆

 焚書に続く時代は、こうして生み出された必要性から予想されるように、かなり知的な活動の時代でした。全く異なった理由からではありますが、それは、プラトンによって学問が刺激された時代に続く世紀のようでした。

 また、中国の歴史に常に存在した暦の調整は、学者たちの関心を集めていました。BC104年頃、皇帝は、公の天文学を復興し、新しい暦が考案されます。また、商業算術に関連するものとして、この頃(BC135年)貨幣の鋳造が政府の優先課題となったことも注目に値するでしょう。この時期の中国の歴史書は、また、西域との交流を行おうとする皇帝の努力についても語っています。こうした努力すべては、東洋と西洋との数学的知識の伝播という問題と関ってきます。

有名な中国の将軍、張騫(Ch'ang K'ien)は、BC2世紀に、西域遠征を行い、BC100年頃には、西はバイカル湖まで使節が送られます。こうした東洋と西洋との交流は数世紀続けられました。例えば、紀元1世紀(AD1-20年頃)のアラム語の写本、最も初期の布パルプ製の紙(rag paper)の標本なのですが、それが中国の国境で発見されています。中国とインドとの交流があったことは、BC218年、すでに、そうした関係が記録されていたり、シンードゥ(Sin-du)という名が、BC120年頃の中国の歴史書に現れている事実からも明らかです。

また、この時期、中国は、西洋に知られていたことも十分立証されています。天文学者プトレマイオス(150年頃)は、ティン(Thin=秦)という名の国について語っていますし、166年には、マルクス・アウレリウスが(中国の)皇帝の宮廷に使節団を送っています。

 こうした思想の絶えざる交流は、暦がしばしば変更されたり、円と関連する幾何学的図形の研究の原因の一つであったでしょう。AD25年頃、劉向(Liu Hsiao)という名の有名な哲学者、天文学者がいました。彼は、漢王朝の宮廷に属しており、当時の「円の求積(circle squarers)」の最も優れた人の一人でした。彼の息子、劉音欠(音へんに欠)(Lin Hsing)は、新しい暦を工夫します。数年後(AD75年頃)、班固(Pan Ku)は、竹の棒(算木)、原始的な算盤の形をしたものの使用について述べた書物を書きました。

この頃に、皇帝安帝(An-ti)の下の主要な占星家であり大臣であった張衡(Ch'ang Hong)(78-139)は、アーミラリ天球(渾天儀)を作成し、天文学幾何学とについて著述しています。彼は、πの値として√10をあげています。これは、 √10を近似値として用いた最も初期の例の一つです。恐らく、彼と同じ時代、確かではありませんが、周髀(Chou-pei) の注釈を書いた趙君卿(Ch'ang ch'un-ch'in)がいたでしょう。190年頃、暦学の多くの専門家の一人である蔡ゆう(巛に邑)(Ts'ai Yung)が活躍しています。