◆5世紀の中国◆


 ◆5世紀の中国◆

 さて、今回は、中国の5世紀について話をしましょう。

 この時代は、数学に何か特別な貢献をした時代と言うよりは、中国と他の地域との交流の証拠がある時代ということで、一層興味があります。数学者の名前は、少ししか知られていませんが、仏教の布教者たちと巡礼者たちがインドから訪れたということが意義深いでしょう。この訪れの結果、ブラーフマンの算術と様々な天文学的著作の翻訳がなされます。それは、この分野での中国の学者たちの活動を刺激しました。

こうした思想の交流は、新しいものではありませんでした。というのも、仏教は、少なくとも、65年にはインドから中国に伝えられていたからです。399年には、中国の仏教徒、法顕(Fa-hien)がインドに赴き、414年に帰国してからは、生涯をヒンドゥーの著作の翻訳に捧げています。宗教は天文学と、天文学は数学と緊密に関連していましたので、こうした宗教思想の交流の影響は、中国の学問(科学)を刺激したに違いありません。

さらに、450年頃以降、中国の年代記史書)の中では、 Po-ssi(ペルシア)の人々に数多く言及していて、それ以後、両国間には、多くの使節が行き交っています。

この時期の数学者の中で、私たちに名が伝わっているのは、皮延宗(P'i Yen-tsung)(400-450年頃)です。彼は、それ以後失われているπの注目すべき値を計算したと言われています。また、機械学の専門家である祖沖之(Tsu Ch'ung-chih)(430-501)もいました。彼は、「指南車」の知識を復活させました。彼は、また、22/7は πの「不正確な値(約率)」だとして、 355/113が「正確な値(密率)」だとしています。また、πは現代の私たちの小数で、3.1415926と 3.1415927との間にあることを示しました。