◆世俗の歌と俗語の歌◆


 ◆世俗の歌と俗語の歌◆

 世俗歌

 記譜を可能にする方法が次第に工夫されるようになって、それまでその真の姿を覆い隠していた世俗の歌が、闇の中から姿を現すようになります。私たちは、シャルル・マーニュのための哀歌 "A solis ortu usque ad occidua"や「聖マルティアリス(サンマルシャル)」写本 Bibl.Nat.lat.1154の中にある9世紀初め頃の歌については、少し懐疑的ではあるのですが。「A solis ortu」の音域は、テトラコードに限られているように思えます。

同じ時期のスペインの写本(Madrid.Bibl.Nac.10029)は、二つの民衆の「ナイチンゲール」の歌、「Sum noctis socia, sum dulcis amica(私は夜の女仲間、私は甘き女友達)」(Berne 36の中にも見いだされる)だけでなく、西ゴート支配者のための同様の planctus(哀悼の歌)を保存しています。別のナイチンゲールの歌「Philomela demus laudes(フィロメーラは賛美する)」は、15世紀になっても様々な資料の中に現れます。

ホラティウス--5つのオード(Ode)--やユウェナリス(八番目の風刺詩(Satire)の一部)ウェルギリウス(アエネイスの一節)、そして、ボエティウスに作曲されたものもあります。恐らく、ゴリアルディの作曲でしょう。その音楽は、読みうる限り、教会の音楽の旋律と似ているようでもあります。しかし、一つだけゴリアルディの歌には、性格が決定的に異なっているものがあります。Cambridge,Univ.Lib.Gg.v35の中にある「O admirable Veneris ydolum(おぉ、すばらしきウェヌス(ヴィーナス)の幻影よ)」という言葉で始まる、旋律は譜表のないネウマで記されているものです。

 俗語の歌

 俗語というのは、ラテン語ではないという意味ですが、知られている最も初期の俗語の歌は、恐らく、10世紀のプロヴァンスの--あるいは、プロヴァンスの書写生によって手が加えられたフランス語の--受難物語でしょう。(Clermont-Ferrand 189)

 Hora uos dic uera raizun
 de jesu xpi passium
 (今から、イエス・キリストの受難の真の物語を(私は)君たちに話そう。)

 それは、4行のストロフィが149にも及びます。残念なことに、その音楽は、一部プンクタ(puncta)で、一部はメッスのタイプの「引っ掻いた(hooked)」ネウマで書かれているのですが、判読できません。

しかし、物語「武勲詩(chansons de geste:songs of deeds)」、11世紀の「ギヨームの歌(Chancun de Guillelme)」、「ゴルモンとイザンバール(Gormont et Isembart)」、偉大な「ロ-ランの歌(Chanson de Roland)」その他のものは、判読できない音楽の記譜さえない状態で、私たちに伝わっているのです。しかし、私たちは、後の資料、パリのヨハネス・デ・クロケオ(Johannes de Grocheo)の「音楽について(De Musica)」(1300年頃)から、cantus gestualis(武勲詩)は、たいていは同じ韻で終わる多くの短い詩行でできており、同じカントゥスは、どの詩行でも繰り返さなければならないことを学んでいます。

恐らく、年を経た叙事詩の技法でしょうし、確かに、19世紀まで残っていたロシアの民衆叙事詩ブィリーナの技法でもあります。今日まで残っているそうしたカントゥスの一つが、Brit.Lib.Royal 20 A XVIIのバタイユ・ダネザン(Bataille d'Annezin)のカントゥスです。

 ついでに言うと、ヨハネス・デ・グロケオは、「武勲詩」は、老人や労働者、一般の市民たちが、労働から休息しているときに歌われるべきであり、そうすれば、他の人々の悲惨さや不幸を聞くことで、自らの苦しみに一層耐え、元気を回復して仕事に戻れると述べています。典礼劇のように--そして、教会の壁画や教会の正門にある彫像のように、それらは、当然劇と関連があるのですが--「武勲詩」は、学識のない人々のための芸術、一般の人々のための芸術ではあるのですが、決してそうした人々の創り出した芸術ではありません。