◆7世紀から10世紀◆


 ◆7世紀から10世紀◆

 7世紀で最も優れた中国の数学者は、王孝通(Wang Hs'iao-T'ung)でした。623年と 626年に生きていたことが知られています。彼は、暦学の専門家で、三次方程式について書いた最初の中国人の一人でした。彼の著作、緝古算経(Chi-ku Suan-king)は、そのほとんどが現存しており、測量術について20の問題が含まれ、これらの問題のいくつかに三次方程式が入っています。しかし、そうした方程式を解く方法は与えられていません。

 8世紀には、数学の重要な著作は何もありません。727年、一行(I-hsing)は、新しい暦、大衍暦(Tai-yen li)を考案し、2世紀後(925年頃)、いくつか価値のある占星術の論文が現れますが、そのいずれにも暦に必要なもの以上の数学は全く含まれていません。西洋の暗黒時代は、東洋にも広がっていたのです。

 日本では、AD500年以前から、日本が知的に発達していく中で、中国の影響が姿を現し始めていたのですが、何らかの明白な[影響の]結果に気づくのは、522年仏教が伝えられ始めるようになってからのことです。実際552年には正式に仏教が伝えられ、二年も経たないうちに、暦法に関連する事柄に造詣の深い二人の学者が、朝鮮を通って日本に中国の暦学の体系をもたらしました。

600年頃には朝鮮の僧侶、勧勒が占星術暦法に関する一連の書物を女帝[推古天皇]に献上しています。皇子の聖徳太子は、(計)算学に非常な興味を示したので、それ以後、日本算術の父という伝承が生まれました。

 それ以来何世代にもわたって、日本はあらゆる知的生活において、完全に中国の影響の下におかれることになります。中国の度量衡の体系が採用され、算術の学校が創設され(670年頃)、同じ頃、天文観測所が設立されました。701年、大学の制度が始められ、九つの中国の書物、周髀算経(Chou-pei Suan-king)、孫子算経(Sun-tsi Suan-king)、六章(liu-chang)、三開重差(san-k'ai Chung-ch'a)、五曹算術[経](wu-ts'ao Suan-shu)、海島算術[経](Hai-Tau Suan-shu)、九司(kiu-szu)、九章(kiu-ch'ang)、綴術(kiu-shu)ですが、数学の学生のために指定され、それは古典のように扱われて数世紀にわたって日本の数学研究に影響を及ぼしました。

 この時期、聖徳太子と並んで、日本数学史に、その名が著しく目立っている人物は、朝廷の相談役であり教師であり(890年頃)、学問と文学との偉大な奨励者でもあった、天神、菅原道真です。

 しかし全体的には、準備の時代であって、中国がすでに発達させてきたものに新しく寄与するものは、ほとんど何もありませんでした。実際、数学の分野で、日本がその可能性に本当に目覚めるのは、17世紀になってからのことでした。