◆宮廷歌の広まり--フランスとドイツ◆


 ◆宮廷歌の広まり--フランスとドイツ◆

 文化史家たちは、永く「十二世紀ルネサンス」の概念を私たちに広めてきました。彼らは、音楽を考える際には、すぐに、トルバドールの歌の偉大な開花を思い浮かべます。それは、同時代のアーサー王物語が果たしたのと同じ仕方で、「騎士道」の概念を反映し、恐らく刺激したことでしょう。

一方、音楽家たちは、フランスの新しい大聖堂によって育まれた音楽の方を強調します。しかし、私たちは、フランスの大聖堂ではわずか二人の巨匠の名前以外には、ほとんど何も知らない一方で、非常に多くの詩人であり作曲家である人々の名前を、しばしばその正確な年代や伝記の詳細に至るまで知っており、さらに、ほとんど圧倒されるほどの量の作品を、私たちは持っています。

 トルバドールたち--ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルン(Bernart de Ventadorn(1125-95))、ベィール・ヴィダル(Peire Vidal)、レンボ・ドゥ・ヴァケイラ(Raimbaut de Vaqueiras)など(有名な名を若干挙げただけですが)--は、1209年ー29年のアルビジョワ十字軍の恐怖が、無惨にもプロヴァンスやラング・ドクの高い文化を絶滅に至らしめるまで、隆盛を極めます。

しかし、彼らの芸術は、すでに一部、アキテーヌのアリエノール(エレアノール)(Eleanor)のおかげで、北方に広まっていました。彼女は、結婚の新婚(冒険)旅行(アヴァンチュール)に、ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルを、最初は、フランスの宮廷へ、続いてイギリスの宮廷に(1154-5年)同行します。

彼女自身の息子、リチャード・ライアンハート(Richard Lionheart)は、トルヴェール、プロヴァンスの宮廷ではなく、フランスの宮廷に雇われたトルバドールでした。--ドュレンシュタイン(Duerrenstein)に捕らわれていた時に作った歌は、シャンソニエ・カンジェ(Chansonnier Cange')(Bibl.Nat.fr.846)の中に保存されています。

同じ世代に、コノン・ドゥ・ベトュン(Conon de Be'thune)、シャストラン・ドゥ・クチ(Chastelain de Couci)、そして非常に多作なガゼ・ブリュレ(Gace Brule')が属しています。コラン・ミュゼ(Colin Muset)とモニオ・ダラ(Monio de'Arras)は、更にいっそう人気を博していました。一方、社会階級のもう一方の端では、次の世紀前半に、後のナヴァルの王、チボー・ドゥ・シャンパーニュ((Thibaut de Champagne)とブラバン(Brabant)のアンリ三世の活動がありました。

 こうした詩や音楽の影響は、フランスに限られたものではありませんでした。王家の婚姻だけで、ヨーロッパ文化の統一を促すには十分だったでしょう。そして、宮廷愛(l'amour courtois)の理念と詩と音楽は、急速にミンネ(Minne)のようなドイツ語を話す地に移植されるようになります。

フレデリック・。バルバロッサ(Frederick Barbarossa)の息子たちが、1184年に、マインツで騎士団に入ることが認められた時、フランスとドイツの騎士たちは、祝典で競い合って祝い、出席した人々の中に「ミンネ」の偉大なジンガーたちの最も初期の人々の一人、フリードリッヒ・フォン・フセン(Friedrich von Husen)が含まれていました。フリードリッヒの歌、「(Iche denke under Wi^len)」は、ギオの「(Ma joie premeraine)」の旋律をもとにしています。ミンネリート(Minnnelieder)のかなり多くが、同様に、フランスやプロヴァンス起源の旋律に基づいていて、時には、また、言葉の意味を自由に取り入れたりしています。

ミンネジンガー(Minnesaenger)すべての中で、最も有名な流浪の歌手(wandering singer)、ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ(Walther von der Vogelweide)(1170-1230年頃)でさえ、前の章で言及した、ジョフレ・ルデル(Joufre' Rudel)の「(Lanquan li jorn)」やベルナール・ドゥ・ヴァンダドル(Bernart de Ventadorn)やブロンデル(Blondel)による歌のそうしたコントラファクタ(contrafacta)を作っています。

しかし、これらのドイツ人によるコントラファクタ(contrafacta)には、驚くべきことは何もありません。なぜなら、フランス人自身がプロヴァンス語とフランス語のテキストを入れ替えたり、お気に入りの旋律にラテン語のテキストを加えたりしているからです。ベルナール・ドゥ・ヴァンタドールの「(Quan vei l'adoete)」、これは、中世すべての歌の中で最も人気のあるものの一つですが、旋律の異本だけでなく、一つのプロヴァンス語のテキストと二つの異なるフランス語のテキストがあり、その一つは、よく知られた「心と眼の競演(contest between heart and eyes)(Quisquis cordis et oculi)」の翻訳です。