◆零の歴史(その8)◆


 ◆零の歴史(その8)

 恐らく、私たちはこの時点で、零のある位取り記数法を発展させた別の文明があったことに気づくべきでしょう。これは、今日メキシコ南部とグアテマラベリーズ北部を含む中央アメリカに住んでいたマヤの人々です。これは古い文明ですが、特に、250年から 900年にかけて繁栄しました。私たちは、665年までに、彼らが零の記号を持つ20を底とする位取り記数法の体系を使っていたことを知っています。しかし、零の使用はそれより遡り、位取り記数法が導入される以前から使われていました。これは素晴らしい業績ですが、悲しいことに、他の民族(人々)には影響を及ぼしませんでした。

 マヤの数学については、別の記事で見ることができます。

 インドの数学者の輝かしい著作は、イスラムやアラビアの数学者、さらに西洋の数学者に伝えられました。それは、早い段階に伝えられています。というのは、アル・フワーリズミーが、「ヒンドゥーの計算法に関するアル・フワーリズミー」という書物を書いているからです。それには、1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, そして 0の数字に基づく位取り記数法が解説されています。この著作は、現在イラクであるところで、位取り記数法で空白の場所を示すのに零(0の記号)が使われた最初のものです。12世紀のイブン・エズラは、数字について3つの論文を書いていますが、インドの数字と小数の考えにヨーロッパの学識ある何人かの人々の注意を魅きつけるのに大いに役立ちました。その数字の書物は、左から右へ位があがる整数の十進法の位取り記数法でした。この著作の中で、イブン・エズラは、零を、ガルガル(galgal)(車輪とか円とか言う意味)と呼んで使用しています。12世紀の少し後、アル・サマワル(al-Samawal)は、こう書いています。

 もし私たちが零から正の数を引くなら、(絶対値の)同じ負の数が残る。… もし零から負の数を引くなら、(絶対値の)同じ正の数が残る。

 インドの考えは、西方へイスラムの国々に広がったばかりではなく、東方へ中国にも広まりました。1247年、中国の数学者秦九韶(Ch'in Chiu-Shao)は、数学の論文「数書九章(nine sections)」を書き、その中で零を表す 0の記号を使っています。少し後、1303年には、朱世傑(Zhu Shijie)が、「四元玉鑑(Jade mirror of the four elements)」を書き、そこで再び零として 0の記号を使用しています。