◆アダン・ドゥ・ラ・アル◆


 ◆アダン・ドゥ・ラ・アル◆

 Moの後半に現れるもう一つの名は、アダン・ドゥ・ラ・アル(Adam de La Hale)という名です。彼は、ペトルス・デ・クルーチェ(Petrus de Cruce)より本質的で歴史的意義があることはさておいても、重要な人物です。名前が残っている数少ない13世紀の作曲家たちのほとんどが、私たちには一人ずつあるいは二人と孤立して知られており、事実がなかなか得られないことが時にあります。

イェアノ・ドゥ・レスキュレル(Jehannot de L'Escurel)は、フォヴェール物語の写本に保存されている旋律的なバッラード、ロンド、ヴィルレの作曲家ですが、様々な犯罪で 1303年にパリで絞首刑にされています。Anonymous IVによって言及された「甘いイギリスの歌い手たち(sweet English singers)」に関して言えば、私たちは彼らの音楽を特定することすらできません。

 アダン・ドゥ・ラ・アルについては、私たちは多くのことを知っています。他のラ・アルと区別するため「リ・ボッス(li Bossu)」とあだ名されたアラ(Arras)家に 1237年頃生まれ、ヴォシェル(Vaucelles)のシトー修道会で、1262年に結婚してからはパリの大学で教育を受けたこと。様々な転変の末、1271年アルトヮ(Artois)の伯爵ロベールII世に仕え、1283年シチリアの晩課(Sicilian Vespers)の大惨事の後、ロベールが、叔父アンジュのシャルル(Charles of Anjou)の援軍として軍を引き連れて派遣された時、彼のお供をしたこと。そこで、アダンは、シャルル王に仕え、1288年にそこで没したことなど。

アダンは特に優れた音楽家であったわけではありませんでしたが、また、抒情詩と叙事詩の詩人でもあり劇作家でもありました。彼の作曲した曲は、36のモノディの歌、5つの3声のモテトゥス、そしてコンドゥクトゥス様式の3声のロンド、ヴィルレ、バッラードなどが含まれ、しかも、それが一つの写本(Paris, Bibl.nat.fr.25566)に集められているという稀な特徴をもっていて、19世紀後半からずっと、現代譜で多く出版されています。

 アダンの名声を最も高めたのは「ロビンとマリオンの劇(Li Gieus de Robin et de Marion)」という牧歌的劇です。ほとんどすべて(の歌)はロビンとマリオンのためのもので、若干、マリオンを追い求めるが空しい結果に終わる騎士やロビンの従兄弟ゴティエのものがあります。疑いなく、その劇(Gieus)は、シャルルと意気消沈したフランス宮廷のための娯楽として提供されたものでしょう。しかし、シャルルは 1285年に没し、アダンの最後の作品は、彼の回想に捧げられた未完の叙事詩「セジル王(Le Roi de Sezile)」でした。

 ロビンとマリオン(Robin et Marion)の曲は、猥褻な田舎喜劇にふさわしく単純なものですが、それを民衆音楽の模倣、あるいは借用と見なすことは、重要な疑問点を避けて通ることになるでしょう。モーダル・リズムは、特に第一旋法は、アダン・ドゥ・ラ・アル以前何世紀にもわたって西洋音楽の意識の中に深く根付いてしまっていました。それがフランスやイギリスの民衆音楽の単純さの中に生き残っています。なぜなら、そこでは、それが「学識ある」音楽の非常に多くの理屈によって覆われていないからです。