◆アルス・ノヴァ◆


 ◆アルス・ノヴァ◆

 14世紀初期のフランス音楽に適用される「アルス・ノヴァ(Ars Nova)」という用語ほど的確に当てはまる歴史的用語は他にはほとんど見あたらないでしょう。それほどまで多くの精神と技法の革新を意識して、音楽家たちは「新しい技法 (ars nova)」を実践していました。

その世紀の変わり目に位置するパリの理論家、ヨハネス・デ・グロケオ(Johannes de Grocheo)は、自らの論文「音楽について(De musica)」中では、そのことに何も触れていませんが、彼のアプローチの仕方は、彼に先行する人々よりも際立って経験的であり実践的です。また、極めて先端的でもあります。例えば、ペトルス・デ・クルーチェは、完全なフランコ式記譜法で書かれた同時代のモンペリエ写本(c.1300)の第7分冊の中で、ブレヴィスを7つのセミブレヴィスにまで分割しており、グロケオは実践上の限界内で「無限に(ad infinitum)」分割できる可能性を認めてはいます。

しかし、「新しい技法」は、ペトルスのモテットでは、「フォヴェール物語(Roman de Fauvel)」のすばらしい写本の一つのに 1316年に挿入された音楽的な修正に比べれば、遙かに明白ではありません。3年後、フォヴェールの作曲家の仲間の一人であるパリの教育者で天文学者でもるヨハネス・デ・ムリス(Johannes de Muris)は、実際に「新しい音楽の技法(Ars novae musicae)」という題名の論文を完成しています。そして、恐らく 1320年に、彼の友人のフィリップ・ドゥ・ヴィトリ(Philippe de Vitry)(1291-1361)が、彼はやがてペトラルカによって「今ガリアで並ぶ者のいない詩人(poeta nunc unicus Galliarum)」として、またジャン・カンピオン(Jean Campion)によって「音楽の優れた創始者(musicorum princeps egregius)」として喝采を浴びるのですが、短い論文「アルス・ノヴァ(Ars nova)」を生み出しました。

 80歳になるアヴィニョンの二番目の教皇ヨハネス22世が大勅書「ドクタ・サンクトールム(Docta Sanctorum)」(1324-5)の中で弾劾したのは、「新しい楽派の弟子たち(disciples of the new school)」に対してでした。彼らは、「テンプスの計量について空騒ぎをし、新しい音符を作ろうとし、古い(音楽)を歌うことより自分たちの音楽を作りだすのを好む音楽家たち、教会音楽が、これらのセミブルヴィスやミニマで歌われている」ことに反対したからでした。

まさにこの時に、「新しい楽派の弟子」でありすべての者たちの中で最も偉大なギヨーム・ド・マショー (Guillaume de Machaut(c.1300-1377)が、1324年、ギヨーム・ド・トリエ(Guillaume de Trie)のランス(Rheim)の大司教としての任命式のためのモテトゥス「Bone pastor Guillerme/Bone pastor, qui pastores/[Tenor unidentified]」でデビューします。