◆典礼の通常文◆


 ◆典礼の通常文◆

 典礼の通常文の進化は、ゆっくりとした過程でした。クレドは、11世紀の初めになってやっと一般的なミサの一部となりましたし、通常文の単旋律聖歌、そのテキストの作曲は(トロープスを除けば)、(教会)暦を通じて変えることはできず、そのテキストはそれぞれの祝祭日に特別である固有文の曲で書き留められ始めたのです。そうして書かれた資料の中で、通常文のグループ化、多くのキリエ、多くのグロリアなどといったものをまとめることから始まりました。ミサの中ですぐ隣にあったという理由から、キリエとグロリアの対が自然とまとめられたり、それほど頻繁ではないですが、遠く離れていたサンクトゥスとアニュスとが自然に一つにされるということは、12世紀になってやっと始まったのです。

単旋律聖歌の旋律に関する限り、「ミサの対(Mass-pairs)」は、中世の間、決して消え失せることはありませんでした。11世紀のウィンチェスター・トロープスは、オルガンのパートのあるトロープス化されたキリエやグロリアを含み、ノートル・ダムの曲集は、ポリフォニーのトロープス化されたサンクトゥスやアニュスを含んでいます。しかし、14世紀まで作曲家を惹きつけたのは、主として、ミサの固有文の聖歌や聖務日課ポリフォニーの作曲でした。

 モテトゥスの全盛期の間、何らかのミサの各部分(movement)の作曲は、いくらか無視されました。それから、通常文が独自に作曲されるようになります。14世紀初めには、完全な単旋律聖歌の一連の曲の編集が、やっと見いだされるようになるだけでなく、それぞれの部分のよりポリフォニー的な曲やポリフォニー(3声部)の完全な一連の曲(cycle)さえも見いだされます。様式から見て、これらの中で最も初期のものは、いわゆる「トゥルネのミサ(Mass of Tournai)」です。後になると、「トゥールーズ」や「バルセロナ」のミサ、そして断片の「ブサンソン(Besancon)」すなわち「ソルボンヌ (Sorbonne)」ミサがあります。

これらはすべては、発見された地名から名付けられていますが、それら--あるいは、それらが編集されたそれぞれの曲-- は、アヴィニョン教皇庁の近辺、恐らく、ベネディクト12世(1334-42)が、古いスコラ・カントールムをローマに残してきたために、教皇礼拝堂(Papal chapel)が設立されたアヴィニョンその地に由来するだろうと想像する根拠があります。これらのミサは、明らかな相互関係があります。トゥルネ・ミサのクレドのよりよいテキストは、イヴレア(Ivrea)写本--少し後ですが--と関係のあるアヴィニョンからそう遠くないプロヴァンスのアプト(Apt)の写本に単独に存在します。

トゥールーズの「Ita missa est」の最後のモテトゥスの曲('Laudemus Jhesum Christum')は、イヴレア写本そのものの中にあるトロープスのグロリアに基づいていますし、トゥールーズクレド、そのテノールのパートだけが残っているですが、それは完全ではありますが別々に現れるイヴレアとアプト、また、バルセロナ・ミサから容易に埋め合わせることができます。(これらの資料では、それはあまり知られていない作曲家、セルトあるいはソルテス(Sert or Sortes)のものとされています。)さらに、ベサンソンのサンクトゥスは、イヴレアのサンクトゥスと密接な関係があり、はるかに著しいのは、そのグロリアはイヴレアのクレドにおいて自由に手を加えられ修正されていることです。