◆ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス◆


 ◆ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス◆

 今回は、数学史でミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス(Michael Constantine Psellus) (1018-c.1078) が出てきましたので、今日は、そのプセッロスを取り上げてみましょう。生没年が、本文と少しずれていますが、1018-c.1078の方が信頼できる数字です。


ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス(Michael Constantine Psellus) は、ビザンチンの政治における役割と広範囲に及ぶ学識から有名で、後にイタリア・ルネサンスに影響を及ぼした。彼は年代記、976年-1078年の歴史を書いただけでなく、当時知られたほとんどすべての学問・数学の領域で注釈をし、最後の偉大なギリシア天文学者とみなされた。

プセッロスは、1041年にミカエル5世の宮廷大臣になったのを始めとして、コンスタンチノープル宮廷の多くの重要な地位に就いた。1042年のコンスタンティヌス9世の即位の際して国務大臣となり、1054年コンスタンティヌス帝の統治が終わるまでその地位にいた。また、彼は、1045年から9年間コンスタンチノープルの哲学の教授を務めている。

1054年は、ビザンチンの歴史においてもプセッロスの人生においても重要な年だった。その年に、ギリシア正教会とローマ・カトリック教会との断絶が決定的になり、プセッロスは、ローマとの分裂を望んでいたが、この大混乱で深く影響を受けた。彼は大学を去り、コンスタンティヌス・プセッロスというこれまでの名に加えてミカエルという名を採用した。

恐らく、彼は、精神的な瞑想の人生を始めたかったのだろうが、1055年に女帝テオドーラに呼び戻され、ビザンチンの政治的大混乱の中に帰った。彼は首相となり、また後にミカエル7世ドゥカス(Michael VII Ducas)(1071-1078)の治世にもその職に就いた。ミカエル7世は、彼が大学にいたときの彼の学生だった。首相として、彼はミカエルにローマ教会との和解のいかなる試みも避けるよう主張した。

政治家になる前もなってからも、プセッロスは広く著作した。彼は、古典古代、特にホメロス神話やプラトン哲学(427-347 B.C.)をより一層強調するカリキュラムを組んで大学を再組織した。彼は、また哲学や神学、文法や法律について著作している。

プセッロスは、また自然科学や医学、数学の注釈も書いた。彼の後者の著作は、学者たちに古代の同国人ピュタゴラス(c. 580-c. 500 B.C.)やアレクサンドリアのディオファントゥス(c. 200-c. 284)に関する貴重な情報を提供している。また、天文学の著作でも記憶されている。彼の役割は、第一に、理論家というよりむしろ記録者・歴史家としての役割であったが。

恐らく、プセッロスの思想への最大の貢献は、アリストテレス(384-322 B.C.)の確固たる科学的世界観に反対するものとしてプラトンイデアリズムを強調したことであっただろう。長い目で見れば、この強調は、科学的思索にネガティブなインパクトを与えたかも知れないが、少なくとも短期的には、彼は、探求の蓄積を新たにするのに役立ち、続いてルネサンスのイタリアの思想家たちに影響を与えた。これらの思想家たちは、長い眠りからプラトンの思想を蘇らせた。

1078年に、マケドニア王朝の勃興による王家の政治は終わり、ビザンチン宮廷でのプセッロスの時代は終わった。その後すぐに彼は没した。

参照 - Michael Constantine Psellus