◆ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス◆


 ◆ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス◆

 ゲルベルトの数学の弟子で最も優れた人は、パリのベルネリヌス(Bernerinus of Paris)でした。彼はゲルベルトの計算法を説明した算術を書いていますが、彼の生涯についてそれ以上のことは知られていません。

 11世紀、ゲルベルトの後継者の中で、最も優れていたのは、シュヴァーベン伯ヴォルヴェラト(Wolverad)の息子ヘルマヌス (Hermannus)でした。彼の四肢は子供の時から痛ましいほど収縮し、歴史上、ヘルマヌス・コントラクトゥス(Hermannus Contractus)として知られています。ライヘナウの修道院の学校で教育を受け、後にベネディクト会修道会に入り、数学の講師となり、周囲に多くの生徒を集めました。彼は、アストロラーベ、アバカス(計算盤)そしてリトモマキア(rithmomachia)という数のゲームについて著述しました。

 西洋の知的活動の時期、コンスタンチノープルにはそれに対抗できるような人はほとんどいませんでした。そこでの知的生活は、まだ停滞していました。11世紀に東方の首都で数学に何らかの関心を示したとして唯一人の名が目立っています。--ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス(Michael Constantine Psellus)(1020 -1110年)です。彼はギリシアの著述家で、アテネに学び、熱烈なプラトン主義者で、哲学を教えるためにコンスタンチノープルに戻っています。彼は数人の支配者による統治の時代を生き、皇帝たちに意見を求められたので、哲学者の王(Prince of Philosophers)という称号が名誉として与えられました。ニコマコスとユークリッド(エウクレイデス)の研究の入門(概論)は、彼によるものとされていますが、彼が実際に書いたかどうかは疑わしいものです。

一つには、彼が数学に関するギリシアの著述家のほぼ最後の人物であったから、一つには、彼の著作が容易に読めることから、また一つには、全般に彼の学識についての名声から、彼はルネサンス時代に何らかの注目を引いた数少ない数学の業績のある当時の学者の一人でした。数学に関する彼の主要な著作は16世紀に少なくとも13回出版されています。彼が、πの値として√8をとっているという事実は、学者(科(数)学者)としての名声が、どれほど価値のないものかを示しているでしょう。