◆フランスのマニエリスト◆


 ◆フランスのマニエリスト◆

 イギリスの作曲家たちは教会音楽に集中していたからでしょう、洗練され複雑が増していっても、イギリス音楽は、マショー後のフランス人によって到達された極端に複雑なリズムには決して近づきませんでした。宗教音楽は、今や、どの地域でも世俗のものよりシンプルになる傾向がありました。

マショーの影響下現れた作曲家たち - F.アンドリュ(F.Andrieu)とマギステル・フランシスクス(Magister Franciscus)(同一人物であったかも知れない。)、ヴェラン(Vaillant)、キュヴリェ(Cuvelier)、スセ(Susay) - は、様式において最も近く、同じ形式、バッラーダ、ロンド、そしてそれほどではないがヴィルレを培ってき ました。

しかし、彼らは、特に最も高いパートでは、流れるようなカンティレーナを好みました。事実、旋律的な上声部は同じく宗教音楽にも侵入し始めます。アプト写本(Apt Codex)には、10の三声の讃(美)歌があり、そのうち9つで最上部に単純で少し装飾された典礼の旋律があります。

しかし、マショーの死の前に、すでに非常に異なる傾向が始まっていました。バッラードなどと同じ形式が、より短い音価に分割、再分割され、アペル(Apel)が「マニエリズムに堕した」と適切に説明した複雑な記譜の革新を同様に必要としたリズムやクロス・リズム(cross-rhythm)の精巧な技法によって複雑化していきました。

「音楽の記譜法が音楽の召使いとしてのその自然の限界を越え、むしろその主人、それ自体が目的、知的詭弁のための活動の場となっている。」この「マニエリズムに堕した」様式は、その多くが、フォァの伯爵(Count of Foix)のガストン・フェビュ(Gaston Phebus)(1392年没)、ベリー公爵(Duke of Berry)の有名な芸術鑑定家ジョン(1416年没)、そしてアラゴンのヨハン1世(John I)のような皇子に仕えたり、作品を捧げたりした作曲家によって実践されました。もう一人のパトロンは、教皇クレメンスVII世その人でした。