◆フランスのマニエリスト(その2)◆


 ◆フランスのマニエリスト(その2)◆

 フランスのマニエリストの作曲家たちは、マショーやその直接の弟子たちと共に、すべて豪華なシャンティ写本(Chantilly Codex)に描かれています。その写本は、実際のところ、アラゴン王によって注文されたまさにその曲集あるいはその豪華版であるかも知れません。なぜなら、それは、彼の勅令にきちんと答えているからです。その何人かは、- フランスの影響を受けたイタリア人と共に - モデナ写本(Modena, Bibl. Est. M.5.24)(olim lat.568)やその他の資料の中にも現れます。

彼らの芸術は、自意識の激しい貴族的な玄人好みの音楽でした。彼らの一人、グィードは、「自然に反して」書かなければならないことに不平さえ漏らしています。「フィリップ[ドゥ・ヴィトリ]」の「boin exemplaire(よき模範?)」は、今では無駄になってしまいました。グィードは過激主義者の一人ではありませんでした。

真の過激主義者の中で最も優れているのは、アラゴンの宮廷にいたフランス人ハープ奏者、ヤコブ・ド・サンレッシュ(Jacob de Senleches)とも、ヤコミ・デ・セントルフ(Jacomi de Sentluch)とも、また(モデナ写本
(Modena Codex)では)ヤコピヌス・セレセス(Jacopinus Selesses)とも様々に知られている人でした。彼の苦心の末到達した精巧さでさえ、「マギルテル・ザカリアス(Magister Zacharias)」という人物によって越えられてしまいます。

モデナ写本の彼のラテン語のバッラード「Sumite karissimi」は、アペルによって「音楽の全歴史におけるリズムの複雑さの極み」と描写されているほどです。記譜だけでなく、記譜のレイアウト上の工夫は、後の時代に加えられたものではありますが、シャンティ写本(Chantilly Codex)の最初のボド・コルディエ(Baude Cordier)による二つのロンドに示されています。ハート形に記譜された有名な「Belle, bonne sage」と円形に記譜された「Tout par compas」です。

後者の一隅に、その作曲者は、ランス(Rheims)生まれで彼の音楽はローマにまで知れ渡ったという内容の韻文が書かれています。

 生まれたランスからローマまで
 彼の音楽は姿を見せさまよい歩く。
 (De Reins dont est et jusqu'a Romme
 sa musique appert et a rode.)

しかし、「Belle, bonne, sage」の実際の音楽は、いくつかの彼の作品(例えば「Amans ames」)ほどマニエリズムには決して堕していません。彼は、恐らく、15世紀初期に活動していたことでしょうそして、その頃には、マニエリズムに対する反動が始まっていました。