◆イングランドの翻訳者たち◆


 ◆イングランドの翻訳者たち◆

 イングランドは、12世紀に優れた翻訳者を二人以上生み出しており、アイルランドは少なくとも一人を生み出したように思えます。これらの中で最もよく知られているのは、バースのアデラード(Adelard of Bath)でしょう。トレド、トゥール(Tours)、ラオン(Laon)、そして東方でも学び、ギリシア小アジア、エジプトを経由して、恐らくアラビアまで旅し、多くの数学的著作を持ち帰ったイングランドの学者です。

彼は、ギリシア語の知識があると信じられ、ユークリッド(エウクレイデス)をラテン語に訳した最初の人たちの一人ですが、この翻訳はアラビア語からなされたように思えます。彼かあるいはカンパヌス(Campanus)のいずれかが、星の多角形の角の総和を求めたように思えます。その図形は、恐らく占星術での使用のためだと思いますが、当時かなり関心が持たれていました。また、彼は、恐らく、アル・フワーリズミーの天文表を翻訳したでしょう。そして、この著者の算術についての注釈も書き、「算盤の規則(Regulae abaci)」と題する著作を書いたと言われています。

しかし、アデラードは、ユークリッドの名をイングランドにもたらした最初の人物では決してありませんでした。というのは、すでに、私たちが見てきたように(p.187)、10世紀には、イギリスの学者たちには、すでに知られていたようだからです。

 アデラードがトレドに滞在した数年後、数学に関心のある別の二人のイングランドの学者が、自らの研究を究めるためにスペインへ行っています。

このうち最初の者がチェスターのロバート(Robert of Chester)(1140年頃)です。彼は、アル・フワーリズミーの代数をラテン語に訳し、いくつかの天文表を用意しました。彼は、北スペインのパンペルナ(Pampelune)の助祭長で、また、イタリアとギリシアに旅したようにも思えます。彼は、コーランクルアーン)をラテン語に訳した最初の人物でした。(1143年)

 そのイングランドの学者の二人目は、ダニエル・モーリー(Daniel Morley)で、1180年、オックスフォードで学んでいました。彼はパリへ行き、そこからトレドへ行って、アラビアの著述家たちを自由に引用しながら、天文学と数学とについて著述しました。こうした人たちが、この時代、数学を求めて強制的に外国へと派遣されたことは、ロンドンの学校で書かれた著作の記録から明らかです。スペインへ行くべきであるというのは、全く自然なことでした。単に言語の理由からだけではなく、アルフォンソ8世(1158-1214年)とヘンリー2世の娘、レノーラ(Lenora)との婚姻で、カスティリアイングランドとの間には、親密な関係があったからです。