音楽史 093 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家(続き)◆


 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家(続き)◆

 こうした休みない放浪は、彼らの物語を語っています。カンブレリエージュの君主の司教職出身のワロン人たちは、イタリアで礼拝の仕事に就いていましたが、決して彼らの祖国と接触を断ったわけではありませんでした。もちろん、全く南へは行かなかった人もいますし、ほんのわずかの期間しかいかなかった人もいました。デュファイの師のリシャール・ロケヴィユ(Richard Loqueville)(1418年没)や 1420年代ブルグンド(ブルゴーニュ)の宮廷にいたヤコブス・ヴィーデ(Jacobus Vide)や最も有名なモンス(Mons)のジル・バンショワ(Gilles Binchois)(1400年頃-1460年)などのように。

しかし、イタリア生まれのチコニアの弟子たちやマニエリストたちを圧倒するに十分な人たちがイタリアに進出していました。- 例えば、アントニウス・ロマーヌス(Antonius Romanus)。彼による 1415年のヴェネチアの総督(Doge)にトマソ・モチェニゴ(Tomaso Mocenigo)が選出されたことを記念するモテトゥスが残っています。また、パオロ・ダ・フィレンツェ(Paolo da Firenze)(1419年頃没)、アントニウス・デ・キヴィターテ(Antonius de Civitate)、そしてバルトロマエウス・デ・ボノニア(Bartholomaeus de Bononia)のような人たちもいました。

マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)が、1416年にミラノ大聖堂を去ると、彼の後継者は9年ぶりにイタリア人ではなく、アヴィニョン人のベルトラメ(Beltrame) つまりベルトラン・フェラグ(Bertrand Feragut)でした。彼は、すでにヴィチェンツァ(Vicenza)にきていました。しかし、最終的な結果は容易に予見できます。イタリアは、イタリアの征服者たちを征服し、ワロン人はイタリア化するようになるのです。その過程は、チコニア自身から始まっていました。