◆最も初期の時代のキリスト教音楽◆


 ◆最も初期の時代のキリスト教音楽◆

 これまでお話をしてきた時代、キリスト教は巧妙にヘレニズム・ローマ社会に浸透していきました。初めはユダヤ教の一派として、やがてユダヤ教徒は袂を分かち、独自の発展をし迫害を受けながらも、325年には、ついにはキリスト教徒の皇帝コンスタンチヌス帝がニケーアに初めての公会議を招集するに至ります。
 
 キリスト教会の礼拝に、どれほどユダヤの礼拝での音楽が採り入れられ実践されていたかは、エウセビオスアレクサンドリアフィロンの著作などから見て取れます。フィロン自身は、ヘレニズム(ギリシア)化したユダヤ人でしたが。
 
 パウロは、「詩編と賛美歌と霊の歌」という三つの分類を二度用いています。霊の歌は、ほとんど確実にメリスマ的な「ハレルヤや歓喜・恍惚の性格を帯びた豊かに装飾された別の歌」あったと思われます。詩編は、もちろんユダヤのものでユダヤ流に朗唱されたでしょう。ユダヤ人たちは、また賛美歌を歌い、アレルヤ(halelu-yah:ヤー(Yah)、すなわちエホバの賛歌」を歌っていました。
 
 しかし、こうした音楽の本質的な部分が、どれほどまでユダヤ特有のものであったかは分かりません。「オデュセイア」や「イーリアス」も朗唱されました。賛美歌も言葉のない歓喜の歌もユダヤ人たちの発明ではありません。これらは、バビロニア、エジプト、ギリシア・ローマで、神を呼び起こし礼拝者たちを恍惚へと誘ったのです。
 
 レスポンソリウム的な歌もアンティフォナ的な歌も、私たちが見てきたように、人類の歴史の始まりにおいてシュメール人によって、ローマの歴史の初め、アルヴァレスやサリイによって歌われていた証拠があります。キリスト教徒たち(あるいはユダヤ)の音楽は、ヘレニズム・ローマ世界全体の音楽の中でほんの一形態に過ぎなかったのです。信仰の広がりと共に、いかに急速に変化をしていったかは別にしても。