◆アルキメデス(その3)◆


 ◆アルキメデス(その3)◆

 すでにアルキメデスの著作を編集していたハイベルク教授は、1906年コンスタンチノープルで機械学に由来するある幾何学的解法についての写本を発見しました。その中では、アルキメデスが機械学の原理に幾何学の真実が由来しているとき、どんな考え方をしたかが述べられていることから、極めて興味深いものです。

 「私が、球(の体積)は、底面がその球の最大円で高さが半径である円錐の4倍であろうと直観した後、球の表面積は、その最大円の4倍であろうという考えが浮かんだ。私は、円(の面積)が底辺が円周で高さが半径に等しい三角形の面積にちょうど等しいように、球(の体積)は、底面が球の表面積と同じで高さがその球の半径に等しい円錐に等しいだろうと考えて研究を進めた。」

 アルキメデスは、マルケルスの治世下(BC212年)のシラクサの包囲戦でローマ兵によって殺されます。その当時のアルキメデスの死の証言をプルタルコスは、いくつか書き記しています。最も一般に広まっているのは、アルキメデスが熱心に図を書いて問題に取り組んでいるときに、ローマ兵が入ってきて、その命に従わなかったので殺害されたというものですね。

 また、アルキメデスの墓には、円柱と球が刻まれさらに詩句が刻まれていたと言うことですが、キケロの時代になると、すでに一般の人々から忘れ去られていました。キケロは、その著作の中に、その墓をシラクサで自ら発見したと書いています。