◆中国◆


 ◆中国◆

 さて、今回から東洋に少し目を向けてみましょう。

 AD500年までの時期、中国では数学活動の盛んな時期の一つであり、そして、わずかではあるにしても、日本が数学への関心を示した注目に値する痕跡が残されている時期です。

 この時期の初め、中国の数学の歴史の中で、最大の関心を惹く出来事は、すべての書物を焼却した事件(焚書)でしょう。秦王朝(BC221)の創始者始皇帝の命によるものであり、書物を焼却しなかった際には、焼印を押されて、万里の長城での4年間の労役という厳しい刑が科せられました。記録によれば、460人の学者が、この忌まわしい法に反対したため、他のものへの見せしめとして生き埋めにされたといいます。

古代の古典のどれだけが生き残り、どれだけのものが記憶によって書き写すという手段で、忠実に(もとの形を)伝えることができたのか、私たちには分かりませんが、恐らく、中国の学者たちは、時の経過とともに、この点を明らかにしようと、本文批判(texual criticism)という学問の方法を発達させたのでしょう。

 この頃、恐らく焚書のすぐ後、張蒼(BC250-152年頃)という学識者がいました。彼は、政府の高官で、同名の初期の作品の断片に基づいて、新しい「九章算術」を書いたという伝承があります。張蒼は、円の弓形の面積を 1/2(c+a)としています。cは、弦の長さで、aは弓形の高さです。また、彼の問題の中に、木の幹の高さを求める問題があります。

一方、弓形の面積の規則は、ヒンドゥーマハーヴィーラ(Mahavira)(c.850年)の著作の中に、木についての問題は、アーリヤバタ(Aryabhata)(510年頃)の時代以降の様々なヒンドゥーの数学的著作の中に見出されます。遙か古代からインドと中国との何らかのつながりがあったことを示すものとみていいでしょうね。