◆メソポタミアの衰退◆
◆メソポタミアの衰退◆
古代メソポタミアは、およそ2500年の間、高度な文明を維持してきました。アッシリア、シュメール、バビロニア、カルデアは、世界の商業機構、学問科学、法律、美術に大きな貢献をしてきました。数学、薬学、宗教、彫刻、建築、文学、そして行政の各学問は、すべてその二つの川の沿岸や、その周辺の土地に住む人々の天才によっています。
しかし、BC6世紀が終わるとともに、この地域固有の文明にとって壊滅的な変化が起こります。BC539年のペルシアによる征服と、それに続くパルティア、ギリシア人、ローマ人の侵入。そのどれもがメソポタミアの領土の一部あるいはすべてを征服し、メソポタミアの古代の栄光をほとんど何も残さなかったのです。
トラヤヌス帝は、アレクサンダー大王の征服を再び繰り返そうとして、AD2世紀の初め、バビロンを訪れますが、「そうした名声に値するものは何一つ見えず、ただ、ガラクタと石の山の廃墟とを見ただけ」でした。
これが、ギリシアが勃興する以前に存在した他のどこよりも世界に大きな影響を、恐らくは及ぼしただろう文明の衰退を象徴するものでした。
占星術は、今日、アジアの広い地域でそうであるように、多くの一般の人々の間でその力を保持し続けます。そのことは、BC2世紀の銘板に示されており、その中で、惑星の位置に関する予言について、王に報告がなされています。迷信が宮廷に影響を及ぼすくらいですから、一般の人々には、はるかに大きな影響を及ぼしたでしょう。
この地域のすべての記録の中で、唯一つの名が、この時期(5世紀まで)の数学史において、また、姉妹学問科学との関連において、言及に値する名として残っています。BC250年頃、カルデアのベロスス(恐らく、バール・オセアス(Bar Oseas)すなわちオセアスの息子)が、コス島に学校を創設し、日時計や恐らくその他の器具を使って、ギリシアに天文学と彼らの民族の占星術の信仰を伝えたというものです。