◆インドと西洋との交流◆


◆インドと西洋との交流◆

 AD500年からAD1000年までの5世紀は、全般に、西洋からインドというよりむしろインドから西洋に数学が伝わるという現象が見られます。ヨーロッパは、知的に冬眠状態にありました。一方、東洋のほとんどは、相変わらず迷信的であったとしても、好奇心に満ちあふれていました。このため、この時期の著作は、先ず、東洋で現れたと考えるのが自然でしょう。しかし、暗黒時代であっても、西洋は、後期のギリシア文化を、東洋に、中国や恐らくインドの知的中心地に、その足跡を残しながら影響を及ぼし続けました。

 こうした交流は、交易(商業)に限りますと、計算技術に影響を及ぼしました。一方、巡礼の旅や軍の活動は、結果として、天文学と抽象数学との知識の交流をもたらしました。さらに、聖職者(僧侶)たちは、その余暇を数学の研究に注ぎ、彼らはしばしば天文学者となり、専門の占星術師として、宮廷で影響力を持ち、あるいは一般の官吏として必要な人々とみなされていました。軍隊が行くところ、数学の知識も付いてまわりました。占星家たちは、こうして他国の占星家の意見を求めました。巡歴する商人、巡礼、そして軍隊は、古代すべての時代と通じて、思想の交流の手段でありました。ちょうど今日、書物や雑誌がそれに対応するメディアであるように。

 この時代、私たちが持っている交流の多くの証拠の中で、主なものをいくつか取り上げてみましょう。518年の仏教の巡礼者、恵生(Hui sing)がいます。7世紀のある時期には、サンスクリットの暦が中国語に翻訳されます。615年には、一人のアラブの使節が中国を訪れます。618年には、ヒンドゥー天文学者が、新しい暦を考案するために、中国の天文局(Bureau of Astronomy)に雇われました。629年には、玄奘(Huan-tsang)が、インドに赴き、645年に帰国後、生涯をインドからもたらした657ものヒンドゥーの著作の翻訳に生涯を捧げました。636年には、中国の記録によれば、アロペン(A-lo-pen)と呼ばれるローマの聖職者が、中国の首都にきています。

そして、7世紀の終わりには、仏教徒の巡礼者が広東からジャワとスマトラに航海します。8世紀には、アラブの使節が、数回、特に、713年、726年、756年に、また、その後にも訪れています。719年には、一人の使節が、ローマから中国の宮廷に送られました。713年と 825年との間、大排水量の外国船が広東を訪れ、その当時、そこに重要な税関が存在していたことが知られています。755年頃、地理学者、賈耽(Kia Tan)(730-805)は、広東からペルシアに至る航海路を書いています。

800 年頃、世界の数学の中心にバグダードが急速になりつつあった時、中国人は、ア・ルン(A-lun)(ハルン・アル・ラシド(Harun al-Rashid))の使節の訪問を受けました。唐王朝(618-907)の記録には、アラビア人(Ta-shi)への言及が数多くあり、12世紀まで、中国人とこれらの人々との交流が、しばしば語られています。マスディ(Masudi)(956年、カイロで没す)は、有名なアラビアの地理学者、歴史学者であり、インド、セイロンと中国を 915年に訪れ、彼の「黄金の牧草(Meadow of Gold)は、これらの国々のことが述べられており、よく知られています。

こうした証拠から、中国は、中国の著しい活動期以前に、西洋の数学の状況を知っていた可能性があるのかどうか、また、他方、西洋は、東洋の進歩について、何か知ることができたのかという問題に簡単に解答を出すことができるでしょう。その答えは、それぞれが、それぞれ互いのことを知っていなければ、かなり奇妙な結果になっただろうということです。