◆カンタベリー大聖堂(その2)◆


 ◆カンタベリー大聖堂(その2)◆

 宗教改革の時期には、カンタベリーには、一連の優れた大司教が現れた。その一人がトーマス・クランマー(Thomas Cranmer)で、最初の2冊の祈祷書を編集し、イギリスの教会及び世界中のアングリカン教会の礼拝の伝統を確立した。

 枢機卿ポウル(Pole)は、メアリー1世統治時代、カトリック復古時代の大司教であり、マシュー・パーカー(Matthew Parker)とジョン・ホイットギフト(John Whitgift)は、エリザベス1世時代の偉大な司教であった。

 清教徒革命で、大聖堂は、ピューリタンによって略奪され(1642)、大聖堂参事会は解散させられた。イギリス教会が再び確立され、大聖堂に生命が蘇ったのは、1660年の王政復古の時である。建物は修理され、日々の礼拝が再開され、参事会が再び組織された。

 19世紀の半ばまで、ほとんど変化はなかったが、19世紀の半ばになると、一連の精力的な大司教、また同様に活発な参事会長が現れ、大聖堂の生活の変革を始めた。

 20世紀になると、大聖堂の大修復が行われ、巡礼の復活(現在、全世界的な規模で)、典礼儀式の再構成や大聖堂の音楽の大復興がなされている。大司教の中で優れた人に、ウィリアム・テンプル(William Temple)がいる。また、国際的名声を博した参事会長にジョージ・ベル(George Bell)、ディック・シェパード(Dick Sheppard)、ヒューレット・ジョンソン(Hewlett Johnson)(レッド・ディーン(the Red Dean))がいる。

 1982年にヨハネ・パウロ2世がカンタベリーを訪問し、大司教ロバート・ランシー(Robert Runcie)と、聖トーマス・ベケットが殉教した場所で祈りを捧げた。

 大聖堂は、世界中の大聖堂や教会とつながりを保っている。歴史的にも現代も、特別な関係が、ノルマンディのアベイエ・ノートルダム、ル・ベック・フルアン(the Abbaye Notre Dame, Le Bec-Hellouin, in Normandy)- 普通には、単にベック(Bec)とだけ言われる - にはある。

 ケアン(Caen)の聖スティーヴァン大修道院長ランフラン(Lanfranc)大司教は、以前はベックのプライア(次長)であったが、1070年に大聖堂の修道院計画をたて、最初の偉大なロマネスク教会を残した。彼の後継者大修道院長ベックのアンセルムは、- カンタベリーで最も偉大な大司教とも言えるが - 1093年に彼の後を継いだ。

 2人とも大聖堂のその名の刻まれた石の下に埋葬されている。聖マーチン礼拝堂にはランフランが、彼の名に捧げられた(聖アンセルム)礼拝堂には聖アンセルムが。今日、温かい関係がベックのコミュニティとの間に存在する。これはモナステレ・セント・フランソワ-ロメヌ(Monastere Sainte Francoise-Romaine)の同じ渓谷に住んでいる尼僧たちの姉妹コミュニティを含んでいる。ベックの大修道院長は、彼女たちも統轄している。私たちの共通の精神的関心は、ちょうど11世紀の修道士たちがそうであったように、教会の統一であり、巡礼(訪問)者が2つのコミュニティの間をしばしば行き来することである。