◆インド(500年から1000年)◆


 ◆インド(500年から1000年)◆

 500年から1000年までの時代、インドには4人から5人の優れた数学者がいました。これは、二人のアーリヤバタ(Aryabhata)、天文学者のヴァラーハミヒラ(Varahamihira)、ブラフマグプタ(Brahmagupta)とマハーヴィーラーカーリヤ (Mahaviracarya)です。これらの著作家の著作は、余りにも優れたものと陳腐なものとが混合しているので、彼らの資質についての判断は、研究者の個人的な同情・共感に大きく依存することになります。アラビアの歴史家、アルベルニ(Alberuni)(1000年頃)は、彼らの著作のこうした特異性について、次のように語っています。

 「私は、彼らの数学的及び天文学的文献を、真珠貝と酸っぱいナツメヤシ、あるいは真珠と動物の糞、あるいは高価な水晶とどこにでもある普通の小石にたとえることができるだけだ。どちらも、彼らの目には同じように見えていた。なぜなら、彼らは厳密な科学的演繹法に高めることができなかったから。」

 私たちに伝えられている偉大な著述家のうち、第一に挙げられるのは、年上のアーリヤバタです。彼は、花の都(the City of Flowers)、ちょうどガンジス川との合流点にあるジュンマ(Jumma)の小さな町、クスマプラ(Kusumapura(Kousambhipura))に生まれました。その場所は、現在のパトナ(パトナー)(Patna)から遠くなく、回教徒たちからはアジマバード(Azimabad)と、古代の仏教徒からはパータリプトラ (Pataliputra)(Patoliputra)と、そしてシリアの使節、メガステネス(Megasthenes)からはパリバトラ (Palibathra)と呼ばれています。

地理的な近さから、アーリヤバタは、しばしばパータリプトラで生まれたと言われます。伝承によれば、その都市は、元来、パータリプトラカ(Pataliputraka)と呼ばれ、魔法の杯と杖、上靴の騎士で、王女パータリ(Patali)と結婚したプトラカ(Putraka)によって創建された都市です。更に、伝承によれば、ブッダは、その生涯も終わり頃、この地点でガンジス川を横断し、その都市の偉大な未来を予言したことになっています。

5世紀の初め、そしてアーリヤバタが生まれる1世紀ほど前までには、その都市は古代の威光をいくらか失っていました。というのは、すでに述べた中国の旅行家、法顕(Fa-hien)が、アショカ王が天才たちに建造するよう命じた王宮の廃墟について記述しているからですが、また、彼は、著しい歓待を受けたこととその他の建物はまだそこにあるとも語っています。

アーリャバタは、明らかに、そこで、あるいはクスマプラで著述をしました。彼が、著作の一つで、次のように語っています。「ブラーフマ、大地(地球)、月、水星、金星、太陽、火星、木星土星、そして星座に敬意を表しながら、アーリヤバタは、花の都で尊き学問を明らかに説き明かす。」

 彼の著作が、すぐ後の数世紀、ヒンディーの学者たちに知られていないのは、恐らく、アーリヤバタが、数学と天文学との古代の中心ウジジャイン(Ujjain)から遠く離れたところに住んでいたからでしょう。