◆最も初期のトルバドール◆


 ◆最も初期のトルバドール◆

 俗語で書かれた歌は、主に、アキテーヌ公ウィリアム9世の下で形成され始めたラング・ドク(langue d'oc)のリムザン(Limousin)方言で書かれました。ウィリアム自身がトロバドール(trobator)で、1120年に第一回十字軍から帰還した後、彼の軍事的不幸をユーモラスに描いた物語「武勲詩(chansons de geste)」で、高貴な聴衆を楽しませていました。

彼の詩のうち2〜3は、かなり猥褻なもので、現存するのですが、音楽は一つの断片しか残っていません。たまたま、14世紀の Jeu de sainte Ange`sの中に保存されていたものです。この断片は、別れの詩に付けられていたもので魅惑的なものです。なぜなら、それは、先に述べた「聖マルティアリス(サンマルシャル)写本」の「Amus novus in gaudio」の旋律の初めとほとんど同じだからです。

ギョームの詩全体は、聖マルティアリス(サンマルシャル)の旋律に合わせて歌うことができます。教会音楽との類似性は、また、残存する4つのマルカブル(Marcabru)の旋律の中でも示されています。彼は、1137年に死ぬまで、ウィリアムの息子ウィリアム10世の庇護を受けていました。

 ウィリアム9世もマルカブルも、後のトルバドールの詩では非常に重要になる、ちょうど姿を現し始めていた得ることのできない貴婦人への「宮廷の愛」を認めていません。実際、マルカブルは、彼の「Dirai vos senes duptansa(私はすぐさまあなたに言おう)」の中では、それを攻撃さえしているのです。

宮廷愛(アムール・クルトゥワ(amour courtois))が最初に花開き、「ブレアのジョフレ・ルデル(Jaufre Rudel de Blaia)」によって最初に歌われたのは、フランスの女王で、続いてイングランドの女王となり、リチャード・ライアンハート(Richard Lionheart)の母となった、ウィリアム10世の有名な娘、エレアノール(Eleanor)の下ででした。

ジョフレ・ルデルという人物は、エレアノール同様に、第二十字軍に出征していました。ジョフレの「Languan li jorn son lonc en mai(五月に日が長くなると)」は、「L'amor de lonh(遠くからの愛)」の古典的表現です。それは、また旋律的に凝ったものでもありました。それぞれのストロフィの一行目と二行目の音楽は、三行目でも四行目でも繰り返され、五行目は5度高くに移調され、六行目はそのままで、七行目で元のピッチに戻ります。

技法の巧妙さと精妙さは、最初からトルバドールの詩と音楽に特徴的なものでした。その詩と音楽は、12世紀後半に、一層十分に咲き誇ることになります。それは、閉ざされた貴族社会の芸術でありました。

 トルバドールは、しばしば、彼ら自らの歌を歌いましたが、彼らが歌の伴奏をしたり、楽器の伴奏をしたりしたという証拠は、奇妙なことに欠けています。しかし、教会に認められなかった下層階級の流浪の職業芸人たち、ジョクラトーレ(joculatores)あるいはジョングルール(jongleurs)、彼らのことを私たちは9世紀頃に初めて耳にするのですが、ヨーロッパ中で知られていて、宮廷や城内から村の旅籠に至るまで、至る所で演奏をしていました。

ドイツではガウクラー(Gaukler)、ロシアではスコモロキ(skomorokhi)(ネストルの年代記によれば、1068年にすでに存在していた)として知られますが、彼らは、歌の歌い手でもあれば、あらゆる種類の楽器、奇術師や家庭教師(bear-leader)と同様、しばしば弓形のヴィエィユ(vielle)の演奏家でもありました。彼らの中には、貴族たちに仕えて定住し、主人の歌を伴奏したような人もいました。どうしてそのようになったのかは、全く別の開かれた問題ですが、13世紀より古い証拠は何もありません。