ローマ教会とグレゴリオ聖歌の成立(その1)
ギリシアからローマに伝えられたキリスト教は、さらにヨーロッパ各地に伝播していきます。その共通語としてラテン語が用いられました。
最初は、ローマ典礼、ミラノ典礼、ガリア典礼、ケルト典礼などの多種多様な典礼が発展していました。
聖ヒエロニムスが大部分を手がけたとされるラテン語訳聖書(ヴルガタ)は、聖歌の歌詞の重要な原典として用いられるようになります。
アンブロシウス
330年、コンスタンティヌス大帝が首都を東のビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと改名して以後、西半分の都はミラノ(ラテン名メディオラヌム)に置かれていました。
そのミラノ司教にアンブロシウスは選出されます。
伝承によれば、彼は礼拝を整理し、典礼を定め、ミラノ典礼は以来アンブロシウス典礼、その聖歌はアンブロシウス聖歌として知られるようになりました。ただ、その確証は何もないのですが。
アンブロシウスは、「テ・デウム」の作者であるとも言われるのですが、これも確証はなく否定的な学者が多いです。
一方、東方の慣習を取り入れて、詩編を歌う際に聖歌隊を2つに分け、交互に歌わせる交唱様式を取り入れたというのは、大方の学者の支持を得ています。アウグスティヌスの証言によるところが大きいと言われています。また、聖書以外の言葉、韻文による有節形式の賛歌(イムヌス)を最初に西方教会に導入し、自らもそうした賛歌を作曲したことでも大方の専門家の同意を得ています。
次の4曲は、彼の作でまず間違いないとされ、後のローマ典礼の聖務日課の賛歌の模範となったことは疑う余地はないでしょう。
Aeterne rerum conditor
Deus creator omnium
Jam surgit hora tertia
Veni Redemptor gentium
賛歌の作者としては、ポワティエのヒエラリウスがよく知られていますが、彼の作とされる聖歌は確認されていません。