◆ハルン・アル・ラシド - アル・マムン◆


 ◆ハルン・アル・ラシド - アル・マムン◆

 ハルン・アル・ラシド

 ハルン・アル・ラシドは、「アラビアン・ナイト物語」で私たちはよく知っていますが、彼は学問の偉大な擁護者でありました。彼の影響のもと、ユークリッドの著作の一部を含む学問に関するいくつかのギリシア古典がアラビア語に翻訳されました。実際に、中世ヨーロッパがユークリッドを初めて知ったのは、アラビア語訳によります。彼の統治下に、ヒンドゥーの学問がバグダード流入するという第二の流れもありました。特に医学と占星術の分野においてですが。

 アル・マムン

 ハルン・アル・ラシドの息子、アル・マムン(al-Mamun)(809-833年統治)もまた、学問の偉大な擁護者でありました。実は、彼は単なる擁護者以上でした。というのは、彼はバグダードに天文観測所を建て、そこで自ら観測を行ったからです。彼は、また、子午線の一度の長さ(the length of a degree of the meridian)を決定する目的でなされたメソポタミアでの二度の測地調査を指揮監督したとも信じられています。彼の命によりギリシア古典の翻訳は続けられます。プトレマイオスの「アルマゲスト」は、アラビア語に訳され、ユークリッドの「幾何学原論」の翻訳は完成されます。

 天文学は、この時期、宮廷で数学を好意的に扱う最大の学問でした。一方で占星術と一方で数学と結びついて、天文学は、数学という学問を確立するのに十分役立つ教えを持ち込んだのです。

 アル・マムンの優れた統治のもと、数学的天文学について著述し、そうすることで三角法(trigonometry)の研究を進めた者たちがいます。その中で、次の学者たちが特に名をあげるに値するでしょう。その才能のためと言うよりはその精神のためにですが。

 アル・タバリ(al-Tabari)は、プトレマイオスのテトラビブロス(Tetrabiblos)の注釈を書きました。アル・ネハヴェンディ(al-Nehavendi)は、天文表の準備をしました。アル・メルヴァルディ(al-Mervarrudi)は、ダマスクスバグダードで天文観測を行いました。(830年頃)アル・アストルラビ(al-Astorlabi)は、バグダードに住んでいて(830年頃)、天文学と測地学について著述し、アストロラーベその他の天文観測の器具の製作者として名高い。メッサハラ(Messahala)はユダヤ占星術師で、後のラビ・ベン・エズラ(Rabbi ben Ezra)(1150年頃)とチョーサー(1400年頃)の著作に影響を与えたように思えるアストロラーベに関する論文を書いています。(800年頃)そして最後に、ヨーロッパでの名を使うとアルフラガヌス(Alfraganus)(833年頃)は、日時計天文学、「アルマゲスト」について著述しています。