◆クラウスラからモテトゥスへ - モンペリエ写本◆


 ◆クラウスラからモテトゥスへ - モンペリエ写本◆

 ペロティヌスのものとされるクラウスラは、「Judea et Jerusalem」の中の「et Jerusalem」の部分のようなオルガヌムのパッセージに起源があります。そこでは、単旋律聖歌は、限りなく引き延ばされるのではなく、一音ずつの歩みでペルフェクチオへと動きます。いわゆる「ディスカント」様式のそうしたパッセージは、ポリフォニー的な作曲を解体され、新しいもので取り代えられました。

 しかし、たとえ、クラウスラが代用のパッセージとして創られたものだとしても、それは急速に、教会用のコンドゥクトゥス同様に、教会の礼拝の相応しい場所に挿入され、それ自体完全な曲として自らを確立していきます。そして、急速に新しい次元を獲得したのです。初めは単一の音節で歌われました。やがて、それ自体に言葉が付け加えられ、こうしてポリフォニーのトロープスとなりました。ポリフォニーのトロープスは、少なくとも聖マルティアリス(マルシャル)の時代から跡づけることができます。

 しかし、言葉を伴うクラウスラ、すなわちモテトゥスは、音楽様式 - 例えば、単旋律聖歌は、モード・リズムのどれかに基づく短く繰り返されたパターンに解体されている - だけでなく、言葉がもともとあった音楽に初めに付け加えられたという点でも異なっています。また、コンドゥクトゥスの場合と同じように、多くのラテン語のテキストが、大法官(Chancellor)フィリップ(Philippe)によって与えられていたことが知られています。

 事実、その二つのジャンル、クラウスラ、すなわち初期のモテトゥスとコンドゥクトゥスは、決して関連がないわけではありませんでした。クラウスラ、すなわち初期のモテトゥスに、他のパートがドゥプルム(あるいはモテトゥス)同様に付け加えられるとき、それらは同じモード・リズムであり、モテットの場合には、コンドゥクトゥスとちょうど同じように、同じ言葉に合わせてでした。

 モンペリエ写本

 13世紀のモテトゥスは、ポリフォニーが世俗(音楽)で用いられるようになる主な媒介手段として著しい成果をあげた、12世紀の教会音楽と世俗音楽との著しい統合でありました。その系統は、民衆に普及していた詩華(文)集に跡づけられ、その発展は多くの重要なコレクションの中に跡づけることができます。その中で最大のものは - 起源はパリですが - モンペリエ医学部(Montpellier, Faculte' de Medecine),H196(一般に Moとして知られる)ものであり、その初めの6つの分冊は、1280年頃、7分冊目は 1300年頃、8分冊目は 1310年頃に年代づけられています。

 第1分冊は、6つのオルガヌム(二つはペロティヌスによるもの)と一つのコンドゥクトゥスと奇妙なホケトゥス (hoquetus)様式の3つの曲を含んでいます。しかし、残りの写本はほとんどすべてモテトゥスでできており、2−6分冊だけで 200曲以上あります。これは、明らかに非常に教養のある聖職者、あるいは世俗人としてはパリ大学の一員であるといったソロの演奏家の愉しみのための音楽だったでしょう。ラテン語のモテトゥスのいくつかは、教会音楽ですが、それほど多くはありません。