◆セヴィリャのイシドルス◆


 ◆セヴィリャのイシドルス◆

 ボエティウスの死後すぐ後に続く数世紀は、古典時代の文学にも学問にもほとんど関心を示しませんでした。聖オーエン(St.Ouen)(609-683年)のような優れた人物でさえ、ホメロスヴェルギリウスの作品を不敬な詩人のつまらぬ歌であると語り、トゥリウス(Tullius)とキケロの二人を特別な人物だとしています。一方、トゥールのグレゴリウス(Gregory of Tours)は、こう嘆いています。「私たちの時代は不幸だ。なぜなら文学の研究は、私たちの中では死んでしまっているから。これらの時代の歴史を記録できる人はどこにも誰も見いだせない。」文明がそのように衰退してしまったので、古いラテンの儀式の遺風にすら価値を見いだした少数の人々がいて、カッペラがしたように、へぼ詩を作ったり彼ら(古典文学者たち)の学識を百科事典という形で出版したりしました。

 後者を企図した人々の中で優れた人物は、歴史家で文法学者、雄弁家で神学者、司教であるとともに全般にわたる学者であり中世で最も有名な政治家の一人でもあったセヴィリャのイシドルスでした。聖マルティヌス(St.Martin)は、彼の葬儀の演説で、彼のことを「惜しみなく与え、愛想よくもてなし、冷静な愛情、自由な感情を持ち、判断においては公平で、職務においては疲れを知らない」高潔で有名な人物として描写しています。裕福な生まれで、経歴を始めるにあたっては家族の縁故によって助けられ、同時代のいかなる人と比べても非常に優れた成功を収めたので、彼の死後数年後のトレドの公会議(653年)では、「並はずれた博士、カトリック教会を支える最も新しい人、常に尊敬をもって語られる」人物として語られました。

彼は、その時代最も学識がある人でしたので、三学科(trivium)と四学科(quadrivium)すなわち自由七科(の自由学芸)には、何らかの価値ある数学が含まれていると予想するかも知れません。彼の「起源 (Origines)」と呼んでいますが、しばしば「語源論(Etymologies)」として知られる著作は、20書からなり、第3書が数学に関するものです。しかし、その扱いはつまらないもので、算術はボエティウスを単に簡略化したものに過ぎません。その著作の残りの部分も、同様に、学問的価値はほとんどありません。