◆尊者ベーダ(ビード)◆


 ◆尊者ベーダ(ビード)◆

 ノーサンバーランド(Northumberland)のモンクトン(Monkton)に、中世の教会の学者の中で最も偉大な人の一人、一般に尊者ベーダ(Beda Venerabilis)、尊者ビード(the Venerable Bede)として知られ、バーク(Burke)によって「イギリスの学問の父」と呼ばれたビーダ(Baeda)が生まれたのは、イシドルスの後100年ほど後のことでした。

 ハラム(Hallam)は、彼のことをこう述べています。彼は「イギリスの古代の年代記文献の他のあらゆる人の名を凌いでいる。彼より古い著述家たちの勤勉な編集者以上のものではほとんどないけれども、恐らく、世界に(西洋だけでなく東洋でも(学問が)低く沈滞していた)当時いた他のどんな人よりも優れていたと見なされるだろう。」

彼は、死の4年前、それまでに書き上げていた37の著作のリストを用意し、それに次のように付け加えています。「私は同じ修道院でこれまでずっと過ごしてきた。私は、修道会の規則と教会の礼拝とを守りながら、私の変わらぬ楽しみは、学ぶこと、教えること、著作することであった。」

アウグスティヌスオーガスティン)がカンタベリーに伝えた知的精神的宝物の二人の継承者、アルドヘルム(Aldhelm)とベヴェリーのジョン(John of Beverley)に教えられ、また高度な学問を修道院にもたらした二人の先駆者、大司教タルススのテオドール(Teodore of Tarsus)と大修道院アドリアン(Adrian)の弟子でもありました。こうして彼は世の中のために尽くし、「神の物静かな活動に聖せられた生涯」を送る用意が十分できていました。

 数学では、彼の関心は、古代の数の理論、教会暦、そして指の数の象徴にあり、彼の著作にはこれらの他の数学的テーマも含まれています。彼のおかげで、私たちは暗黒時代に書かれた暦についての最良の書を、また、彼の時代までの数字の記数法について最良の著作を手にしています。ある数学的な楽しみ(の書)もずっと彼によるものだとされてきましたが、彼が、その著者であるという決定的な証拠はありません。