◆十三夜◆


 ◆十三夜◆

 中秋(旧暦8月15日)とともに、お月見の風習がある十三夜(旧暦9月13日)ですが、中秋の名月が中国から伝来したのに対し、これは、日本独特の風習だそうで、一説には宇多法皇が九月十三夜の月を愛で「無双」と賞したことが始まりだとも、醍醐天皇の時代(延喜十九年:西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています。

 一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものともされ、片方のだけの月見は、「片月見」といって嫌われていたそうです。

 また、十五夜サトイモなどを供えることが多いため「芋名月」と呼ばれたりしていますが、十三夜は「栗名月」とか「豆名月」と呼ばれます。これはお供えとして栗や豆を、神棚などに供えるからだそうです。

(以上参照:十三夜 - http://www.echizenya.co.jp/mini/colum/13.htm

 ところで、十三夜の月は、十五夜十六夜の月に比べると、まんまるのお月様に見えないように思うのですが、どうですか。そんな月を、名月と言って愛でる日本独特の風習、ふと、徒然草のこんな一節を思い出しました。

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衞知らぬも、なほあはれに情深し。・・」(第137段)

 ここに、ふと日本人の感性を見る思いがします。徒然草では、月が見えなくてもという話になっていますが、十三夜の月は、まだ満月とは言えない月を美しいと愛でるわけですね。何も完全なものだけが美しいのではない。そこには、独特の美意識が働いているように思えます。

 最後に、樋口一葉の「十三夜」から一節を紹介しておきます。

「 今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止(よし)なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が屆いたのであらう、自宅(うち)で甘い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奧樣氣を取すてゝ今夜は昔しのお關になつて、外見(みえ)を構はず豆なり栗なり氣に入つたを喰べて見せてお呉れ、・・・」