◆イギリスの学問の衰退◆


 ◆イギリスの学問の衰退◆

 アルクィンの死後、カンタベリーの聖アウグスティヌス(オーガスタン)(604年あるいは 613年)と共にブリテン島で始まった輝かしい時代は、それが始まったのと同様突然幕を閉じます。デーン人の侵略が、知的発展を促した安全な世界という感覚に終わりをもたらし、アルフレッド(848-900年)が王位についた時(871年)には、こう嘆くだけでした。「教えを求めて人々がこの島に来るという時代があったが、今では、私たちはそれを求めても海外に求めなければならない。」

 しかし、アルフレッドの孫のアセルスタン(Aethelstan)が王位につきますと、彼は学問の育成に非常な関心を示し、14世紀に書かれた詩には、この強力な支配者の統治の時代に、ユークリッド(エウクレイデス)がイングランドに伝えられたという言及がなされています。

 アルクィンの最も有名な弟子が「ゲルマニア第一の指導者」(Primus praeceptor Germaniae)、フルダ(Fulda)の修道院の大修道院長であり(822年)、マインツ大司教であったマグネンティウス・フラバヌス・マウルス (Magnentius Hrabanus Maurus)です。彼は若い頃、広く旅をし、ベーダ(Beda)の著作に基づいて暦に関する価値ある論文を書き、当時の数学のほとんどを含む学問であった天文学について称賛に値する知識があったことを示しています。

 アルクィンの二番目の弟子で、フランスで教会が恵み深い影響を及ぼしたその証人でもあるのが、オセールレミギウス(Remigius of Auxerre)でした。彼はベネディクト会の修道士で、ランス(Rheims)で学校のために多くのことをし、パリには学校を創設しました。その学校から大学が発展したと考えている者もいます。彼はカペッラ(Cappela)の算術の注釈を書きましたが、それは数学になんら重要な貢献をしたものではなく、無駄な論争と空虚な詭弁の時代に典型的なものにすぎません。