◆ゲルベルト(ジェルベール)◆


 ◆ゲルベルト(ジェルベール)◆

 とは言っても、この時代は、まだ中世の前の世紀の精神によって支配されていました。「信仰が知性を打ち負かす」また「権威は研究の敵となった」「学者たちは教師に退化した」「学問は錬金術占星術の泥沼の中に自らを失い、忠実な信者たちには禁忌(破門に値するもの)になった」時代でした。

このことは、著名な教会人で学者であるゲルベルト(Gerbert)、これまで教会や都市ローマに輝きを与えた偉大な教皇の一人ですが、彼に対する学者世界の態度に見て取れます。彼は教皇の座に就き、シルベステル2世(Sylvester II)という名で 999年から 1003年まで統治しました。彼は卑しい両親の下に生まれましたが、生来の利発さからオーリヤック(Aurillac)の修道士たちの下で学ぶよう召喚されます。特に、フリュリのアッボ(Abbo of Freury)のような立派な学者の下で学び、彼の教育を完全なものとするためにスペインに送られました。(967年)

970年頃、彼はイタリアへ行きます。そこで教皇に紹介され、教皇によって皇帝に拝謁されました。972年フランスに戻ります。彼は教会で様々な職務をこなし、999 年に教皇職に選出されます。彼は非常に学識のある人で、「魔術として告発されるという」-- 私たちの学識の運命は -- 誤謬と戦い、新たに数学への関心に目覚め、ヒンドゥー・アラビアの数詞の知識を得、占星術(当時価値ある学問と見なされていたテーマ)の研究に関心を向け、算術、幾何学、その他の数学の諸学と恐らくアストロラーベについて著述したことでしょう。

 ゲルベルトと同時代の人物ですが、ゲルベルトの人生が壮大であったのと極めて対照的に地味な生涯を送った人物、ラムゼー(Ramsey)の修道院のイギリス人修道士で、その名をバートファース(Byrhtferth)という人がいました。彼はフランスに旅し、フリュリのアッボ(Abbo of Fleury)の下で学びます。イギリスに戻ると、学生のグループがラムゼーで彼を待ち受けているのを発見します。彼は彼らに、天文学、暦学、そして数学の原理を教え始めます。

しかし、時代は研究に都合のよい時代ではありませんでした。この3世紀の間(1000-1300年)、イギリスには平均して14年に一度の飢饉があり、生活は厳しかったのです。恐らく、そうした災難が示しているように、物質に対する精神の克服の必要性が、後のイギリスの思想家たちが生まれるのを可能にした影響の一つだったでしょう。