◆世紀の変わり目のイタリア◆


 ◆世紀の変わり目のイタリア◆

 フランス同様の複雑な曲とシンプルな曲との対比が、14世紀から15世紀への変わり目頃のイタリア人、ランディーニより若い世代で、一層フランス化した同時代人の作品を特徴付けています。

これらのうちで最も重要なのは、マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)でした。マッテオは、歌手で、当時、1402年から 1416年まで、ミラノ大聖堂の最初のマエストロ・ディ・カッペラ(礼拝堂指揮者)(maestro de cappella)であったことが知られています。

彼の作品は、すべてモデナ写本にあり、5つのグロリア、一つのアニュス(と恐らくいくつかの作曲者不詳のミサの一部)、そしておよそ24の世俗曲、ロンド、ヴィルレ、フランス語の歌詞で完全にフランス様式のバッラードからなっています。ボド・コルディエ(Baude Cordier)のもの同様、それらは、時には、記譜が期待させるほど音において複雑でない場合もあります。しかし、グロリアの一つは、確かに、イタリア・マニエリズムの頂点に位置するでしょう。

 シャンティリ写本(Chantilly Codex)の終わりにあるモテトゥス、四声の曲が9曲、三声の曲が4曲ありますが、それらはリズム的には歌ほど複雑ではないことに注目すべきです。それらは、三つを除いてすべてラテン語のテキストですが、すべて宗教的なものでは全くありません。世俗のモテトゥスは、長い間それほど重要であったのですが、今や絶滅の危機に瀕した形式になっていました。

他方、宗教的モテトゥスは、シャンティリ写本には決して現れませんが、実際にはそれが知られていなかったイタリアでは、その写し、モデナ写本の中で、新しい生命が与えられていました。ここでは、その作曲家はマニエリストと見られていて、彼のヴィルレに、彼の友人であったかあるいは師であったに違いないフィリップス・デ・カセルタ(Philippus de Caserta)による三つのバッラーダの歌詞と音楽とが織り込まれています。

この新参者は、北から、リエージュから来たワロン人、ヨハネス・チコニア (Johannes Ciconia)(1411年没)でした。彼は、少なくとも生涯の最後の9年間をパドヴァで過ごしています。

 彼は、ここ時期イタリアにやって来た君主司教職(prince-bishopric)の唯一人の音楽家であったわけでもなく、アヴィニョン教皇たちだけが外国人を雇ったわけでもありませんでした。ローマのボニフェティウス9世は、少なくとも3人のリエージュ出身の歌い手を礼拝堂に雇っていました。彼らは、イタリア音楽を変貌させてしまうことになる著しい(外国人の)侵入の先駆者たちでした。前の半世紀の間に、そうした変化の条件がすでに整えられていました。彼らの中で著しく抜きんでて重要なのがチコニアです。