音楽史 092 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家◆


 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家

 これまで、ヨーロッパのポリフォニーは、イギリス人がそうであったように、ほとんどもっぱらフランス語を話す音楽家たちと近く絶えず接触のあった音楽家たちの手で発展してきました。私たちがちょうど見てきたように、トレチェント(14世紀)のイタリアの一時の個人的な音楽でさえ、次第にフランスの影響によって変容させられてきました。しかし、パドヴァにチコニアが現れたり教皇庁礼拝堂に彼の同国人たちが職を得たりしたことは、新たな展開、外国人によるイタリアの音楽家の地位の占有をもたらしました。

これは、特に、ローマ教会の分裂の終わりに著しくなります。コンスタンツ公会議(The Council of Constance)そのものが、様々な国の音楽家たちを集めました。皇帝ジギスムント(The Emperor Sigismund)は、オズワルド・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein)を伴って来ましたし、イギリスの派遣団が伴った歌い手たちは、コンスタンツだけでなく旅の途中のケルンでも特別に称賛されました。

 1417年に、やっとマルティヌス5世が選出されると、彼は亀のようなゆっくりした旅に出かけ、行く先々で礼拝堂聖歌隊員を補充しています。1419年に、マントヴァで補充されたレグラン(Legrant)による、一つのグロリア、二つのクレド、三つのフランス語のヴィルレ(virelais)、ほとんどが一音対一音の様式で大胆な半音階主義の曲ですが、私たちは持っています。もう一人の優れた作曲家 - シャンソンだけですが - ピエール・フォンテーヌ(Pierre Fontaine)(泉のペトルス(Petr. de fonte))は、イェーハン・ドーレ(Jehan Dore)と同じ時、1420年3月にフィレンツェで補充されています。

ニコラウス・グレノン(Nicolaus Grenon)は、1385年の早きにブルグンドの宮廷にいて、それから、パリ、ラオン(Laon)、カンブレ(Cambrai)、ベリー公爵(The Duke of Berry)の礼拝堂にポストを得、その後再びブルグンド(ブルゴーニュ)の宮廷とカンブレに戻っています。1425年6月に、彼は少年たちのグループを引き連れてローマに現れます。彼が、1427年に北に帰ると、彼の親しい友人であったカンブレ出身のワロン人、その世紀で最も偉大な作曲家になるギヨーム・ド・デュファイ(Guillaume de Dufay)が後を継ぎます。

デュファイは、リミニ(Rimini)とペサロ(Pesaro)のマラテスタ家(The Malatestas)の礼拝堂に、1420-6年の間、すでにイタリアにいました。1433年、彼もまた放浪の旅へと去っていく前に、彼は、新しい教皇、エウゲニウス4世(Eugenius IV)を彼の最もすばらしいモテトゥス「Ecclesiae militantis」で褒め讃え、その礼拝堂の三人の新入聖歌隊員を歓迎しています。

デュファイは、1434年、サヴォイのルイ(Louis of Savoy)とイェルサレムキプロスの最後のルジニャン王(the last Lusignan King)の娘との結婚のためにトリノ(Turin)へ赴き、混乱によって彼がローマから追い立てられると、教皇に従ってフィレンツェボローニャへ行きますが、1437年には永久に教皇の礼拝堂を離れ 1444年頃までトリノにいます。そして、生涯の最後の30年間を - 彼は 1474年に没しますが - ブルグンド(ブルゴーニュ)公の庇護のもと、カンブレとモンス(Mons)で過ごします。