◆メソポタミア(その3)◆


メソポタミア(その3)◆
 
 バビロニア算術の初期の重要な知識は、ユーフラテス川に面したラルサで、1854年に、イギリスの地質学者 W.K.ロフトゥス(Loftus)によって発見された二つの粘土版に由来します。年代は不確かですが、ハムラビ王の時代(BC2100)のものではないかと思われます。
 
 その後、ヌッファル(Nuffar)、バビロンの南に位置する古代都市ニップールで、およそ5000枚の粘土版が発掘され、その中に数学に関するものがたくさん含まれていました。それらは、明らかに、BC2150年かそれより少し早い時期、またBC1990年ごろ再度、エラム人によって破壊されたと思われる大図書館のものでしょう。
 
 これは、これまで知られている古代数学資料の中で、最大の分量を誇っています。ノイゲバウアー(Neugebauer)の粘土版に関する多くの研究は、シュメールとバビロニア人は、特殊な方程式を解くことができ、負の数の知識もいくらかあったことを示しています。幾何学については、他の資料も含めて、三角形や正方形の面積を求めることができ、円の面積や円柱の面積も可能であったように思われています。
 
 バビロニア人が、60という数字を使うようになった理由は、はっきりとは分かりませんが、彼らは星の観察に興味を持っていて、早い時期から一年が360日の循環で成り立っていたと信じるようになったと考えられています。また、円に内接する正六角形の一辺が円の半径と等しいことも知っていたでしょう。
 
 こうした知識は、360を6つの等しい部分に分割できることを示していて、60という数字が、一種の神秘的な数とみなされていたのかも知れません。さらに可能性のあることとして、60は、2、3、4、5、6、10、12、15、20、30という整数の約数を持っていることがあげられます。こうすると、その分数の扱いがとても簡単になるからです。